Julián Aguirreについて

 フリアン・アギーレ Julián Aguirre は1868年1月28日、ブエノスアイレスに生まれた。父フアン・アギーレはスペインのバスク地方出身、母ロレンツァ・ディアスは元々のアルゼンチン人であった。

 フリアンが僅か一歳の時、アギーレ一家はスペインに移住する。最初一家はカタルーニャ地方のタラゴナに住まうが、彼が四歳の時にマドリードに住むことになった。この頃よりピアノを始めたアギーレは、めきめき上達したのだろう。まだ少年の時期にマドリード音楽院に入学しピアノと作曲を勉強、15-16歳の時には音楽院でピアノと作曲の首席を取っている。18歳でマドリード音楽院を卒業したアギーレは、正にヨーロッパ留学を終えたかのごとく、その翌年の1887年に家族と共にブエノスアイレスへ戻った。

 アルゼンチンに戻ってからのフリアン・アギーレは、その後ブエノスアイレス音楽院の教授を務め、1912年にはワグネリアーナ協会 Asociación Wagneriana を設立し会長を務め、1916年には自らアルゼンチン音楽学校 Escuela Argentina de Música を創立している。1901年にはMargarita del Ponteと結婚し、5人の子どもをもうけた。

 1924年8月13日、ブエノスアイレスにてフリアン・アギーレは亡くなった。享年56歳。

 フリアン・アギーレの曲は作品番号Op. 61まで見られるが、作品番号のない曲もあり、正確な作品数は不明である(総作品数は107曲とする文献はある)。管弦楽曲では、組曲 "De mi país"、組曲 "Belkiss" などが存在したらしいが、楽譜が現存しないので詳細は不明である。彼の作品の多くが歌曲や合唱曲で、特に学校の校歌は20曲以上作曲している。その他はヴァイオリンソナタ , Op. 32などのヴァイオリン曲が数曲と、チェロソナタ、ピアノ曲がある。彼の晩年の1924年7月にスイス・ロマンド管弦楽団の指揮者として有名なエルネスト・アンセルメがアルゼンチンを訪問。アンセルメはフリアン・アギーレに会い、その後アギーレのGatoとHuellaを管弦楽用に編曲している。

 フリアン・アギーレのピアノ曲は、"Aires criollos"などはミロンガやハバネラのリズムでブエノスアイレスの街のおしゃれな雰囲気を、"Aires nacionales argentinos(第1集、第2集)" や "Gato"、"Huella" などはアルゼンチンの田舎の素朴な情景を描写している。(アルゼンチンの作曲家Juan Francisco Giacobbeは、自著の中でアギーレの作品を「都会のクリオージョ (criollo suburbano)」、「パンパのクリオージョ (criollo pampeano)」、「幻想風な作品 (de un tipo de fantasia)」の3つに分類している。)ピアノの書法はシンプルだが、古くからのアルゼンチンの民謡を自分の語法で美しく歌い上げた作品は聴いていて心が暖まります。アルゼンチン民族主義音楽の祖と呼ぶに相応しく、後年の多くのアルゼンチンの作曲家が、自作のピアノ曲をフリアン・アギーレに尊敬の念を込めて献呈しているのも納得させられます。

 

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