Francisco Bragaについて

 アントニオ・フランシスコ・ブラーガ Antônio Francisco Braga(姓をブラガ表記することもある)は1868年4月15日、リオデジャネイロに生まれた。家は貧しく、しかも6才頃に父が亡くなり、彼は孤児院に入れられた。が、孤児院の院長はブラーガの音楽好きに気付いたらしく、彼を王立音楽院に入れてあげた。音楽院でクラリネットや和声、対位法などを学んだブラーガは19歳の時には《幻想的序曲 Fantasia Abertura》を作曲している。

 1889年、ブラジルは皇帝を廃位し共和国になった。この時国歌も新しく持つべしとして国歌作曲コンクールが行なわれることになり、ブラーガもこのコンクールに応募した。コンクールは1890年1月20日、時の大統領デオドーロ・ダ・フォンセカ臨席のもと行われ、36作品の中から1位にはレオポルド・ミゲスの曲が選ばれた。(しかし結局、新たな国歌は国民の間に馴染まず、旋律の方は1822年のブラジル独立時から《凱旋マーチ》として歌われている以前からのものに落ち着いたとのこと…。)ブラーガの曲は2位に留まったが、彼は審査員特別賞を受賞し、2年間のヨーロッパ留学の奨学金を得ることが出来た。

 ブラーガはヨーロッパに渡りパリ音楽院に入学、ジュール・マスネに作曲を師事した。2年間を過ぎてもブラジル内務省からの援助を受け留学を続けた。1896年にはドイツのドレスデンに移り住み、ワーグナーに傾倒していく。しかしその一方では交響詩《マラバー Marabá》といったブラジル民族主義的な作品も作っている。ドイツに住み、ワーグナーのような壮大なオペラを作曲したいと思い続けていたブラーガは、ブラジルを舞台としたオペラ《ジュピラ Jupira (Jupyra)》の作曲に取りかかり1900年には完成した。彼はミュンヘン王立劇場での《ジュピラ》の初演を望んだが叶わず、しかしブラジル発見四百年祭の催しとしてリオデジャネイロで初演できることになり、10年ぶりにブラーガはブラジルに帰国。同年10月7日、ブラガの指揮によりリオ・デ・ジャネイロで《ジュピラ》は初演された。

 ブラジルに戻ったブラーガはリオデジャネイロの国立音楽学校 Instituto Nacional de Música の作曲と対位法の教授に就任。また1905年には《国旗への歌 Hino à Bandeira Nacional》を作曲し有名になった。1908年には代表作の劇音楽《ダイアモンド商人 O contratador de diamantes》が初演された。指揮者としても1912年にシンフォニー・コンサート協会を創立し、会長と指揮者としてその後20年間活動した。1915年に若きヴィラ=ロボスが作曲した《Suíte para quinteto duplo de cordas》(初演時のタイトルはSuíte característica)を初めてリオデジャネイロで指揮したのもブラーガである。

 1931年にはフランス政府よりレジョン・ドヌール勲5等 Chevalier de la Légion d'honneur を授与された。

 1933年にワーグナー・フェスティバルの指揮を行っている最中、ブラーガは心臓発作を起こし倒れた。その後指揮者として活動することも出来なくなり、1938年には国立音楽学校教授も退職した。晩年は国立音楽学校よりの恩給だけで経済的には苦しかったとのこと。ブラーガの友人である詩人のOlegario Marianoらは老いた彼の窮状を見かねて時のヴァルガス大統領に直訴。教育省は直ちに《国旗への歌》に対する6万クルゼイロの賞金をブラーガに与えたとのこと。

 1945年3月14日、フランシスコ・ブラーガはリオデジャネイロで76歳にて死去した。

 ブラーガの作品は管弦楽が多い。オペラ《ジュピラ》(1898-1900)、未完のオペラ《アニータ・ガリバルディ Anita Garibaldi》、劇音楽《ダイアモンド商人》(1905)、交響詩《悪夢 Cauchemar》(1895)、交響詩《マラバー》(1897)、《交響的エピソード Episódio sinfônico》(1898)、交響詩《不眠 Insônia》(1908) などがある。その他彼の作品には、宗教曲、弦楽四重奏曲、ピアノトリオなどがある。また彼は《国旗への歌》以外にも、《ブラジルの青年への賛歌 Hino à juventude brasileira》、《平和への賛歌 Hino à Paz》(1928?) といった愛国的な歌や校歌を多数作曲した。

 ブラーガにとってピアノ曲は重要なジャンルではなく、ピアノ曲はさほど多くはない。但し、私個人的に彼の《侯爵夫人のルンドゥ Os lundus da marqueza》というピアノ曲が何となく忘れられず好きです。

 

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