Eduardo Cabaについて

 Eduardo Caba Valsalia(エドゥアルド・カーバ・バルサリア)は1890年10月13日、ポトシで生まれた。子どもの頃は母にピアノを習い、13歳でラパスの学校に通った。2年後にポトシに戻るも、再びラパスに住み国立銀行に就職し、1925年頃まで勤務した。

 1925年にはアルゼンチンのブエノスアイレスに留学し、フェリペ・ボエロに師事した。またブエノスアイレスでアルゼンチン人のMaría del Carmen Huergoと結婚し、1男1女をもうけた。ボリビアに帰国して間もなく、政府の奨学金を得て1927年に家族を連れスペインに留学し、ホアキン・トゥリーナらに師事し、管弦楽法などを学んた。

 1934年頃にはボリビアの政権交代により奨学金が尽き、カーバは帰国の途に付くが、帰国船がブエノスアイレスに着くと彼はボリビアには戻らず、約2年間ウルグアイに住んだ。1935年1月にスペインの名ピアニスト、リカルド・ビニェスがウルグアイのモンテビデオで演奏会をしたが、そこでビニェスはカーバのピアノ曲 "Aires indios第5番" を初演した。ビニェスはその後もヨーロッパでのリサイタルでカーバのピアノ曲を度々演奏した。

 その後カーバはしばらくブエノスアイレスに在住するも、1942(または1943)年にボリビアに帰国。ラパスの国立音楽院院長に就任し1945年まで務めた。

 1953年、ラパスで死去した。

 エドゥアルド・カーバの作品には、ヴァイオリン(またはフルート、オーボエ)とピアノのための "El poema de la quena"、バレー音楽 "Kollana" 、いくつかの歌曲などがある。また晩年には交響曲 "Illimani" を作曲したが、演奏される機会がなく楽譜も失われてしまっている。ピアノ曲の多くはボリビア民族音楽の雰囲気満点で、特に音使いは五音音階(ペンタトニック)または六音音階(ヘキサトニック)にかなり忠実である。スペインに留学までして作曲を学んだのならもう少し和音に工夫があってもいいのに〜、とも考えたくなりますが、そもそもヨーロッパの調性音楽とボリビアの民族音楽はかなり異なるのに、そのギャップを調和して、本格的なピアノ音楽に昇華させた彼の苦心が偲ばれるような気もします。ともあれ、ボリビア民族主義を代表するピアノ曲と言うに相応しい作品ばかりです。

 

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