Teresa Carreñoについて

 Teresa Carreño(テレサ・カレーニョ)は1853年12月22日にカラカスで生まれた。父親のManuel Antonio Carreño (1813-1874) は外務大臣や大蔵大臣を務めた政治家であり、祖父のCaetano Carreño (1774-1836) は作曲家であったと。母方の遠い親戚には、ベネズエラなどラテン・アメリカ独立の指導者シモン・ボリバルがいるという、ベネズエラきっての名家にテレサ・カレーニョは育った。ピアニストでもある父は娘テレサのためのピアノ練習曲を自ら作曲し、3歳でピアノを習い始めた彼女は驚異的に上達し、6歳の時にはピアノ曲を作り、神童と呼ばれていた。

  この時代、ベネズエラは連邦戦争 (1859-1863) と呼ばれる内戦が勃発していた。父は内戦や政争を逃れるために、また娘に更なる音楽教育を受けさせようと1862年にまだ8歳のテレサ・カレーニョと共に米国へ渡り、ニューヨークに住んだ。米国で彼女は、作曲家のルイス・モロー・ゴットシャルク(ガチョーク)に師事。同年11月7日にはワシントンで、11月25日にはニューヨークで演奏会を行い、ショパンやゴットシャルクの作品に加え自作の "Gottschalk waltz, Op. 1" を演奏し、演奏会は大成功を収めた。1863年にはボストンで20回ものリサイタルを開き、ボストン交響楽団との共演も行った。また同年3月から4月にかけてキューバを訪れ、ハバナでのコンサートでは、自作の"Saludo a Cuba"を弾いた。そして同年秋にはついに、時の米国大統領リンカーンに招待され、ホワイトハウスでリンカーンの前での演奏を行った。(彼女はこの時の演奏を回想で「ピアノの椅子は高過ぎて、ペダルには足が届きにくく、鍵盤は重かった」と述べている。)

 米国各地でのカレーニョの演奏会は好評であったが、父親は、娘を音楽の本場ヨーロッパに連れて行こうと決心。1866年3月に父娘は米国を出発。イギリスに寄った後、フランスのパリに居を構えた。パリに着いて間もなく、カレーニョはエラール・ピアノの社長夫人が催したコンサートでロッシーニの絶賛を受けた。オペラ作曲家であるロッシーニは、カレーニョにオペラ歌手をすることも勧めた。続いてエラール夫人が催したのはリストとのジョイントコンサートで、プログラムの前半はリストが、後半はカレーニョがピアノを弾いた。リストはカレーニョの演奏を絶賛しながら「頑張って、才能を伸ばしなさい」と励ましたとのことである。パリではショパンの弟子のGeorges Mathiasに師事した。同年11月より1867年1月までは父娘はスペインを訪れ、マドリッドやサラゴサで演奏会を開いた。スペインでも彼女の演奏は「泉が湧き出るような演奏」と大好評であった。普仏戦争のため、1870年にカレーニョはイギリスに移り住み、アントン・ルービンシュタインに師事した。イギリスでは指揮者のMauricio Strakoschと知り合い、彼が指揮するオペラ公演に歌手として誘われて歌ってみたら、これがまた大喝采を浴びたとのこと。

 1872年、Strakoschが率いる楽団が米国公演するのにカレーニョは同道した。この米国公演で注目を浴びたソリストはピアニストのカレーニョと、ヴァイオリニストのÉmile Sauret (1852-1920)であった。この二人は共演を通じて深い仲となり、イギリスに帰国した1873年6月に二人はロンドンで結婚した。1874年3月には娘のEmiliaを出産している。同年8月にはカレーニョの「ステージマネージャー」として晩年を費やした父Manuel Antonio Carreñoがパリで死去している。

 カレーニョとÉmile Sauretは結婚した当初から仲が悪かったとのこと。1875年の春頃には二人は別れてしまっている。1876年、カレーニョは再び米国に渡り、Strakoschが行っているオペラ公演に歌手として参加。1876年1月には、オペラ歌手としてのニューヨークデビューとなった「ドン・ジョバンニ」のツェルリーナ役は大当たりだったとのこと。オペラ歌手としての仕事を通して、カレーニョはイタリア出身のバリトン歌手Giovanni Tagliapietra (1846-1921)と親しくなり、同年に二度目の結婚をする。二人の間には三人の子供が出来た(Lulú、Teresita、Giovanniの三人、但しLulúは幼くして死亡)。

 1885年10月、カレーニョは夫を伴い、23年振りに祖国ベネズエラへ里帰りした。カラカスでのリサイタルではピアニストと歌手両方で出演した。またベネズエラでのオペラ劇団の設立に尽力した。

 カレーニョと夫Giovanni Tagliapietraの結婚生活も長くは続かなかった。1889年、カレーニョは夫と別れ、二人の子供を連れてヨーロッパへ向かった。ロンドン、パリに滞在した後、10月にベルリンに居を構えた。同年11月にはベルリンフィルとの共演でグリーグのピアノ協奏曲を弾き、以降ヨーロッパ中でコンサートピアニストとしての活動を活発に行った。ライプツィッヒでのグリーグのピアノ協奏曲演奏会には、作曲者のグリーグが聴きに来ていた。グリーグはカレーニョに、「私の協奏曲がこんなに美しく弾かれたことはないです」と絶賛したとのこと。1891年にはロシアへの演奏旅行をしている。ドイツでのカレーニョはグラスゴーに生まれのピアニスト・作曲家のEugen d'Albert (1864-1932) と親しくなり、1892年6月に彼女は三度目の結婚をした。二人の間には子供が二人(Eugenia、Hertha)生まれた。d'Albertはカレーニョの作った軽いサロン風のピアノ曲は好まず、カレーニョにもっと重厚なドイツ音楽を学ぶよう求めたらしい。d'Albertとの結婚生活も短く、1895年には別れている。離婚直後の同年に、夫の影響で作った「ドイツ音楽」満点の弦楽四重奏曲が作曲されたのは皮肉である。

 1902年6月、カレーニョは前々夫の弟であるArturo Tagliapietraと四度目の結婚をした。四度目にして、カレーニョは初めての幸せな結婚生活を手に入れた。子供こそ作らなかったが、Arturo Tagliapietraとは終生の伴侶として仲睦まじく過ごしたとのこと。カレーニョは引き続き世界中を演奏旅行して回った。1903年にはスペインとポルトガルを、1907~1908年にはオーストラリアとニュージーランドを、1909~1911年にはオーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、エジプトを訪れてリサイタルを行った。1914年からヨーロッパは第一次世界大戦に巻き込まれるが、カレーニョは演奏活動を続け、1916年にはベルリンで傷痍軍人を前に慈善コンサートを開いている。

 1916年9月、米国からの30回の演奏会契約を受けてカレーニョはニューヨークに移った。同年より翌1917年にかけて米国各地でコンサートを開いた。また、時の米国大統領ウィルソンに招待され、五十数年振りにホワイトハウスでピアノを弾いた。

 1917年3月21日、キューバのハバナで行ったリサイタルが彼女の最後の演奏となった。キューバにいる時に複視の症状を起こし、ニューヨークに戻ったが、6月12日、脳梗塞で死亡した。1938年にカレーニョの遺骨はベネズエラへ運ばれ、そして1977年に遺骨はカラカスの国立霊廟に埋葬された。1983年にカラカスに完成した大劇場は「テレサ・カレーニョ劇場」と命名されている。

 カレーニョは生前、ともかくピアニストとして有名であった。その豪快な演奏から彼女は「ピアノのワルキューレ」と呼ばれていたとのことである(言いたいことは何となく分かるが、それにしても変なあだ名だね)。チリ出身の有名なピアニストのクラウディオ・アラウは1916年にベルリンでカレーニョの演奏を聴いたことがあって、「彼女は女神だ。あの気迫、あの力。ベルリン・フィルの昔のホールをあれほどの響きで満たした人は、他に覚えがない。彼女のようにオクターブを弾ける人は、今日ではいないと思う。」と述べていたとのこと。

 カレーニョの作品は殆どがピアノ曲で、1873年以前の十代の頃に作られたものが大部分である。20歳以降はピアニストとしての活動や、結婚生活・育児などで作曲する暇などあまり無かったのだろう。例外は、ラテン・アメリカ独立の父シモン・ボリーバル生誕百年を記念して作られた合唱と管弦楽のためのボリーバル讃歌 (1883)、弦楽四重奏曲ロ短調 (1895)、弦楽オーケストラのためのセレナーデ (1895)くらいで、ピアノ曲も少々ある。カレーニョはベネズエラ出身とは言え作品にラテン風味は僅かで、ピアノ曲は気軽に聴けるヨーロッパ・サロン風の作品であり、また特別な作風の個性がある訳でもないために後世に名を残す作曲家とまでは正直言い難い。しかし、ヴィルトゥオーゾ・ピアニストであった彼女であるだけにピアノ曲の技法はかなり高度である(アマチュアには弾きこなせない曲ばかりであることが却って普及を妨げているような気がする)一方、オペラ歌手を務めた経験もあるカレーニョらしく殆どのピアノ曲はとてもメロディックで(多くの部分ではっきりとした旋律がある)聴き易く、すなわちピアニスティックでありながら親しみ易い曲ばかりである。カレーニョの波瀾の人生と彼女のピアノの超絶技巧を思い浮かべつつ彼女のピアノ曲を聴くのは楽しいですよ。

 

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