Ricardo Castroについて

 リカルド・カストロ Ricardo Castro(正式名はRicardo Rafael de la Santísima Trinidad Castro Herrera)は1864年2月7日、メキシコ北部のドゥランゴ州ドゥランゴ市に生まれた。6歳より地元ドゥランゴ市のAcademia Santa Ceciliaでピアノとソルフェージュを習った彼は、7歳か8歳の時には既にマズルカやワルツを作曲していたとのこと(楽譜は現存しない)。

 1877年、政治家であったカストロの父が国会議員に選ばれ、一家は首都メキシコシティに移り住む。リカルド・カストロは1879年1月に国立音楽院に入学、メレシオ・モラレスやフリオ・イトゥアルテなどに師事し、ピアノと和声、作曲を勉強。普通は10年かかる課程を僅か5年で1883年に終了した。学生の頃から作曲家・ピアニストとして活動していた彼は、在学中に既にピアノや作曲でメキシコ国内のいくつかの賞を獲得した。1883年5月にはベネズエラで開かれたシモン・ボリーバル生誕百年祭に、彼のピアノ曲《メキシコ民謡による華麗なる奇想曲 Aires nacionales mexicanos、作品10》の楽譜がメキシコ音楽の代表作の一つとしてベネズエラ国立図書館へ送られた。

 カストロはその後も1885年に、米国ニューオーリンズで開催中の万国産業兼綿百年期博覧会 (1884-1885年) で演奏会を行い、引き続きニューヨーク、ワシントンDC、フィラデルフィアでリサイタルを開いた。1885年4月にはニューヨークで《アメリカ合衆国の民謡によるメドレー Potpourri de aires nacionales de los Estados Unidos》というピアノ曲を演奏したらしいが、楽譜は現存していない。

 カストロはコンサートピアニストとしての活躍を続け、また1886年からはカンパ - エルナンデス・アセベド音楽学校 Instituto Musical Campa-Hernández Acevedoでピアノ教師を務めた。1892年にはグリーグの《ピアノ協奏曲、作品16》のメキシコ初演でソリストを務めた。1894年には再び米国を訪れ、ニューヨークで演奏会を催した。1895年にはメキシコ楽友協会 Sociedad Filarmónica Mexicana を創立し、ヨーロッパの作曲家の室内楽曲の演奏会を度々催した。

 1900年1月、カストロの代表作となるオペラ《アツィンバ Atzimba》がメキシコシティで初演された。また同年4月に彼は国立音楽院作曲科教授に就任した。

 1901年には地元ドゥランゴにリカルド・カストロ劇場が建設された。

 1902年にはメキシコ国内19都市(メキシコシティ、サカテカス、アグアスカリエンテス、ケレタロ、トレオン、デュランゴ、チワワ、サン・ルイス・ポトシ、グアダラハラ、グアナファト、レオン、モレーリア、トルーカ、プエブラ、ハラパ、オアハカなど)での計30回のコンサートツアーを行った。

 1902年12月、作家で、後に教育芸術大臣となるフスト・シエラ Justo Sierra の推薦によりカストロは政府の奨学金を得てヨーロッパに留学した。留学にあたっては当時のメキシコ大統領ポルフィリオ・ディアスからも奨学金を得たとのこと。パリでは当地の音楽教育を視察する一方、ベネズエラ出身のピアニストのテレサ・カレーニョに師事、自作をヨーロッパ各国で演奏した。また作曲でも《チェロ協奏曲》や、メキシコ人作曲による初めてのピアノ協奏曲となる《ピアノ協奏曲、作品22》、オペラ《ルーデルの伝説 La légende de Rudel、作品27》を作曲した。

 1906年10月、メキシコに帰国。同年11月にはオペラ《ルーデルの伝説》がメキシコシティで初演された。また同月に行われたディアス大統領夫妻の銀婚式でピアノリサイタルを開いた。翌1907年1月にはディアス大統領の肝煎りで国立音楽院の院長に就任し、ピアノ科主任教授も兼ねて教育にも力を入れ始めた矢先の1907年11月28日、肺炎(感染性腸炎という資料もあり)のため43歳の若さでメキシコシティで亡くなった。ディアス大統領は、国民に3日間喪に服すよう布告を出したとのことである。

 リカルド・カストロの作品には、まずいくつかのオペラ~《アツィンバ》(タラスカ王国、現在のミチョアカン州が1522年にスペインに征服される時代を舞台としていて、アツィンバとはタイトル・ロールであるタラスカ王国の王女の名前である、1898-1899)、《ルーデルの伝説》(1905)、《オーストリアのドン・ジョヴァンニ Don Giovanni d'Austria (Don Juan de Austria)》(1888-1892)、《Satán vencido》、《El beso de la Rousalka》があるが、劇場上演されたのは前者2作のみである。その他に《交響曲第1番ハ短調 "Sagrada"、作品33》(1883)、《交響曲第2番ニ長調》(1887)、《交響詩オイソーナ Oithona、作品55》(1885)、《チェロ協奏曲》(1903または1904)、《ピアノ協奏曲、作品22》(1904) などを作曲した。歌曲も多数あるようである。

 リカルド・カストロの死後、メキシコでは約35年間に及んだディアス大統領の独裁体制の打倒(1911年)に始まり、新しい革命憲法が制定されるまでの(1917年)メキシコ革命の時代となる。生前ディアス大統領の擁護を受け、作品がヨーロッパ風のカストロの作品は死後「反革命的」と批判され、その後メキシコでも忘れられていった。そのためか長らくメキシコ国内ではカストロの作品の演奏は(生前の名声に比べて)散発的で、ピアノ曲の楽譜も殆どが絶版になったこともあってあまり演奏されることはなかった(カストロのピアノ曲は技巧的に難しいものが多く、そのこともまた彼の作品の普及を妨げていたのかも知れない)。しかしカストロ没後百年となる2007年に前後して、彼の協奏曲やピアノ曲を録音したCDがいくつか発売され、2014年には百余年ぶりにオペラ《アツィンバ》がドゥランゴ市のリカルド・カストロ劇場で上演されている。

 カストロのピアノ曲はヨーロッパのロマン派や、19世紀のメキシコのサロン音楽の作曲家達(アニセト・オルテガ、トマス・レオン、フリオ・イトゥアルテなど)の流れを汲んでいて、メキシコ民族音楽の響きはあまり感じられない。しかしカストロのピアノ音楽の書法は当時の他のメキシコの作曲家のレベルを遥かに凌駕した高度なもので、19世紀から20世紀初頭のメキシコのピアノ音楽がここで頂点に達したとも言えよう。和声的にはちょっと古くさいが、ピアノの書法は18歳年下のポンセをも越えているようにも思える。また彼のいくつかのワルツなどは他の作曲家には聞かれない独特の明るく暖かい風光が感じられ、それはそれでとても魅力的と思いますがいかがでしょうか?。今後、彼の作品が更に再評価されていくことを期待しています。

 

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