Ignacio Cervantesについて
イグナシオ・セルバンテス・カワナック Ignacio Cervantes Kawanagh は1847年7月31日、ハバナに生まれた。彼は3歳の時にはティプレ(小型の12弦ギター)をいじって弾いている音楽好きの子どもであった。父からピアノの初歩を習った。《キューバ舞曲集 Danzas cubanas》の第1番〈孤独 Soledad〉は10歳の時に作曲したとされているが、真偽の程は不明である。12歳からは当地の有名な作曲家・ピアニストのニコラス・ルイス・エスパデロに師事した。また米国の有名な作曲家・ピアニストののルイス・モロー・ゴットシャルクが1854年以降たびたびキューバを訪れていて、1860年にゴットシャルクがキューバに滞在した時には、彼はセルバンテス少年のピアノ演奏に感銘し、レッスンを授けたとのこと。
1865年、セルバンテスはフランスに留学。パリ音楽院でアントワーヌ=フランソワ・マルモンテルに師事。また「アルカン」にも師事したとするいくつかの資料があるが、これは有名な作曲家シャルル=ヴァランタン・アルカン Charles-Valentin Alkanではなく、その弟のナポレオン・アルカン Napoléon Alkan と思われる。1866年にはパリ音楽院のコンクールでアンリ・エルツのピアノ協奏曲5番を弾き、一等賞を受賞した。彼はパリの楽壇でも話題のピアニストとなり、ロッシーニなどパリ在住の音楽家達と親交を持つ事になった。パリ留学中の逸話で、ある日の午後、あの有名なフランツ・リストがセルバンテスの家の前をたまたま通りがかった際、セルバンテスが弾く素敵なピアノの音が聞こえてきたのでリストは思わず彼の家のドアをノックし、「あまりに上手な演奏だったので、どなたが弾いているのが知らずにはおれず伺いました」と挨拶したとのこと。
1870年1月にキューバに帰国したセルバンテスはピアニストとして活躍した。まだクラシック音楽の演奏会が少なかったキューバで、彼はベートーヴェンのピアノソナタ全曲演奏会を催すなど活発にリサイタルを行い、またショパンやリストなどロマン派のピアノ曲の演奏においても名手であった。特にピアノのペダルの絶妙的な使い方について賞賛されている記録が複数あり、宛ら「ビロードの音色だった」とのことである。また多くの生徒にレッスンを授けた。1872年12月8日に、セルバンテスはピアニストのマリア・アンパロ・サンチェス・リシュー María Amparo Sánchez Richeaux (1857-1940) と結婚した。
当時のキューバはスペインの植民地であり、「十年戦争(第一次キューバ独立戦争)」と呼ばれる独立運動派とスペイン支配者の間の戦いが続いていた。セルバンテスは独立運動に共鳴していたが、そのためか1875年に突然、将軍に呼び出され、「貴方のコンサートの収入が反乱者たちに渡っている。逮捕する前に国外に出よ。」と言われ、セルバンテスは米国に亡命した。1875年10月19日には、キューバ出身のヴァイオリニストJosé Whiteとのジョイントコンサートをニューヨークで催している。その後メキシコに渡り、ピアノ曲《キューバ舞曲集 Danzas cubanas》を書き続けた。1878年の「十年戦争」の終結、そしてキューバにいた父の危篤の報を受け、1879年にセルバンテスは帰国した。彼は再びピアニストとして活躍、また彼が作曲した《交響曲ハ短調》と管弦楽曲《ヘクトグラフ、ワルツ Hektograph, Valses》は1887年に演奏され、またサルスエラ《潜水艦ペラール El submarino peral》は1889年に初演された。1891年にはヴァイオリニストのラファエル・デイアス・アルベルティーニ Rafael Díaz Albertini と共にメキシコに渡り演奏会を行い、更に米国に移動しての演奏会旅行を1892年まで行った。しかし1895年に第二次キューバ独立戦争が勃発し、再び彼はメキシコに亡命。キューバの支配を争った米西(米国・スペイン)戦争のスペインの敗北により、1899年頃に再び帰国した。(このメキシコ滞在の期間については文献により異なっており真相は不詳である。セルバンテスが1899年1月にハバナのタコン劇場で演奏会を催したとする文献がある。)キューバ帰国後はタコン劇場 Teatro Tacón(現在のハバナ大劇場)の指揮者として活躍した。1901年にはサルスエラ《軽業師たち Los saltimbanquis》が上演された。
1902年、米国のチャールストンで開かれた博覧会に、セルバンテスはキューバの音楽家の代表として参加した。更にワシントンD. C.、フィラデルフィア、ニューヨークでも演奏会を行った。しかし、同年にキューバに帰国した頃からセルバンテスはうつ状態となり、殆どピアノを触らなくなっていた。1904年、息子のIgnacio Jr.に連れられてニューヨークを訪れ、神経専門医を受診したが病状の改善はなく、間もなくキューバに帰国。1905年4月29日、ハバナにて死去した。
セルバンテスの作品には、未完のオペラ《この野郎 Maledetto》、サルスエラ《潜水艦ペラール》(1889)、サルスエラ《軽業師たち》(1899)、《交響曲ハ短調》 (1879)、管弦楽のための《気まぐれなスケルツォ Scherzo capricioso》(1886)と《ヘクトグラフ、ワルツ》(1887) などがある。いくつかの室内楽曲や歌曲もある。しかし現在、彼の名を留めているのはピアノ曲のみである。37曲から成るピアノ曲《キューバ舞曲集 Danzas cubanas》には、笑いあり、悲しみがあり、愛があり、別れがありといった感じで、セルバンテスの天性の素敵な楽想がたっぷり詰まっているように思えます。