Carlos Chávezについて

 カルロス・アントニオ・デ・パドゥア・チャベス・イ・ラミレス Carlos Antonio de Padua Chávez y Ramírez は1899年6月13日、メキシコシティ近郊のPopotlaという町で七人兄弟の末っ子として生まれた。9歳頃から兄にピアノを習い始め、1910年にあの有名なマヌエル・ポンセが主宰するピアノアカデミーに入りピアノを師事した。1912年6月24日にポンセが教え子と催した、ドビュッシーのピアノ曲全曲演奏会では、弱冠13歳のチャベスはドビュッシーの〈月の光〉を弾いている。15歳の時にはピアノソロリサイタルを行い、16歳の時には既にピアノ教師をしていたとのことである。作曲の勉強は殆ど独学で行ったらしい(ポンセにはピアノしか習わなかったらしい)。管弦楽法の勉強は12歳の時からAlbert Guiraud著の「Traité d'Instrumentation et Orchestration」を読み、大作曲家達のオーケストラスコアを読むことで独学したとのこと。15歳頃からはピアニストのPedro Lusz Ogazónに師事した。Ogazónはドビュッシーやラヴェルの演奏に長けており、この頃のチャベスは印象主義の音楽に傾倒していたらしい。16歳の時には既に交響曲を作曲している。15歳の時から書いていたピアノ曲のいくつかは1920年には出版され、1921年にはチャベスの作品演奏会が行われて、彼の《ピアノ七重奏曲》などが演奏された。

 1922年、チャベスはピアニストのOtilia Ortizと結婚。同年9月に夫妻でヨーロッパに渡った。彼はウィーン、ベルリン、パリを訪問。ベルリンでは彼が作曲した《ピアノソナタ第2番》と《夜明け:メキシコのイメージ À l'aube: image mexicaine、作品17-1》が出版された。パリではポール・デュカスから、スペインのファリャやハンガリーのバルトークのように自国の民謡を創作の源にするように、との忠告を受けた。

 1923年、チャベスはメキシコに帰国するが、間もなくニューヨークに渡り数カ月滞在。再びメキシコに戻ってからは、バルトーク、サティ、シェーンベルグ、ストラヴィンスキーに加え自作の演奏会シリーズを催すが不評で、1926年から再びニューヨークに住む。そこでアーロン・コープランドらアメリカの音楽家と知り合いになり、徐々にチャベスの作品が知られていくことになる。

 この頃メキシコでは政情不安のために、かつてポンセが常任指揮者を務めた国立交響楽団 Sinfónica Nacional が1925年に解散してしまっていた。しかし1928年、新たにメキシコ交響楽団 Orquesta Sinfónica Mexicana が創設された。若きチャベスは指揮者として指名され、彼はメキシコに帰国。1949年までの21年間、常任指揮者として活躍し、この交響楽団のレパートリーを増やし、自作を含むメキシコ人作曲家の作品を積極的に指揮した。また同1928年には国立音楽院の院長にも就任。自ら作曲を教え、ブラス・ガリンドやホセ・パブロ・モンカージョなどの教え子を育てた。

 1930年代には《交響曲第2番「インディア」Sinfonía india》(1935)、管弦楽曲《チャプルテペック Chapultepec》(1935) などの民族主義的な代表作を作曲。チャベスの作品は米国で演奏される機会が多く、バレー音楽《馬力 Caballos de vapor (Horsepower)》(1926) は1932年にストコフスキーの指揮により米国で初演。《交響曲第1番「アンティゴナ」Sinfonía de Antígona》(1933) は1934年にニューヨークフィルで、1935年にシカゴ交響楽団で演奏された。また《交響曲第2番「インディア」》は1936年にCBS交響楽団により初演された。チャベス自身、米国中の多くのオーケストラで客演指揮を行った。1940年にはニューヨークで開かれた「20世紀のメキシコ芸術」博覧会に於ける演奏会を統括し、自作の管楽器と打楽器のための《ショチピリ:想像のアステカ音楽 Xochiphilli: An Imagined Aztec Music》(1940) を初演した。チャベスの音楽家としての地位はますます高まり、1947年には、当時のメキシコ大統領ミゲル・アレマンの指示で創設された国立芸術院 Instituto Nacional de Bellas Artes (INBA) の院長に就任。また1947年にはブラス・ガリンド、ホセ・パブロ・モンカージョ、ロドルフォ・アルフテルらと共に楽譜出版社 "Ediciones Mexicanas de Música"を創立した。

 1930年後半より、チャベスの作品は現代作曲家らしいーメキシコ色のない、様々な旋法によるー作品が主となっていく。音楽家としての地位は高くとも、実際に彼の作る難しい現代音楽がメキシコの人達に好まれていたわけではなかった。1951年以降に作られた交響曲第3番、第4番、第5番、第6番はいずれも米国からの委嘱であり、また1952年に国立芸術院院長を辞めてからは、タングルウッド音楽祭での作曲の講義 (1953)、バッファロー大学でのレクチャーシリーズ (1958)、ハーバード大学での七ヶ月に亘る講義 (1958)、UCLAでの約半年の講義 (1966) など、活動の主な場所を米国に移していた。

 1969年、メキシコ文部省よりの依頼で、チャベスはメキシコ国立音楽院での作曲のワークショップを行った。チャベスは、当時の国立音楽院の作曲教育が旧態然であり、有能な作曲家を輩出していないと指摘。チャベスのワークショップでは生徒に独特の課題を与えた。それは例えば、モーツァルトのピアノソナタと同じ和音進行、同じ性格の主題を用いてオリジナルの曲を作らせ、演奏し、生徒同士で批評し合った。ベートーベンの弦楽四重奏曲、シューベルトの歌曲、ショパンのピアノ曲などでも同様のことを行わせた。チャベス自身、お手本?として上記のスタイルで作品を書いていて、彼の《ピアノソナタ第5番》(1960) はモーツァルトの《ピアノソナタK.533(アレグロとアンダンテ)》を元にしており、また《交響曲第6番》(1961) はブラームスの交響曲第4番第4楽章を用いている。

 1970年には国立芸術院の音楽部長を引き受け、またメキシコ国立交響楽団の音楽監督に再就任した。しかし楽団員とうまくいかずストライキを起こされてしまい、間もなく職を辞した。以降は晩年まで、再び音楽活動の多くを米国で行った。1974年にはニューヨークのリンカーン・センターの向かいにあるアパートを借り、晩年の殆どはそこで暮らした。1975年のメキシコの新聞によるインタビュー記事でチャベスは「作曲家としての私の人生を平和に終らせたらなぁと思っている。私はメキシコ音楽界のことが理解出来ない。私にはもう5、6年しか残されていないのに。」と述べている。1978年5月8日にワシントンDCで行われた演奏会での、チャベス自身の指揮による彼の《トロンボーン協奏曲》の初演が彼のステージの最後となった。1978年8月2日、郷里メキシコシティ近郊のコヨアカンにある娘Anaの自宅でチャベスは亡くなった。

 チャベスはその優れた管弦楽法により、交響曲作曲家として評価が高い。7曲の交響曲は全集のCDも出ている。またマーサ・グラハムのために作曲したバレー音楽《コルキスの娘 La hija Cólquide》(1943) など、5つのバレー音楽を作った。その他、《ピアノ協奏曲》(1938)、《ヴァイオリン協奏曲》(1948)、《トロンボーン協奏曲》(1976)、《弦楽四重奏曲第1番》(1921)、《弦楽四重奏曲第2番》(1932)、《弦楽四重奏曲第3番》(1943)、ギター曲、歌曲、合唱曲など多くの作品を作った。

 いくつものCDが出ている交響曲と比べ、チャベスのピアノ曲は殆ど知られていない。しかし元々ピアノを習ってきた彼らしく、実は多数のピアノ曲を作曲している。10代の頃の作品はロマン派風の作品が主であるが、20代になり印象主義や、更には教会旋法の使用や無調など現代音楽家らしい作風が主となっていく。また《5つのショパンの練習曲集の左手への変換》とか、古典派の作品そのものの《ピアノソナタ5番》、《ピアノソナタ6番》など過去の大作曲家へのオマージュを思わせる作品も加わり多様である。全般的に、高度な作曲法で幅広い表現を行っているチャベスのピアノ曲は、米国で高い評価を受けた彼に相応しい作品群と呼べよう。しかし同時に、多くの作品で認められるあまり耳に心地よいとは言えないその難解さは、メキシコの一般人の耳には受け入れられないのも事実で、彼が最後の晩年までー今もかなーメキシコ音楽界で受け入れられなかった現実も認めなくてはならないと思う。(チャベスの生前には彼のピアノ曲のみのLPは全く無く、晩年の彼は、親交の深かったピアニストのマリア・テレサ・ロドリゲスに「せめて1枚の(ピアノ曲の)LPを出したい・・」と語っていた。)ちなみに、彼の作品の楽譜の多くはメキシコでなく、米国で出版されている。また、中南米を代表する作曲家との名声の割にはピアノ曲を録音したCDはあまり多くない(作っても売れないんだろうな~)。私個人的にもチャベスの音楽は和音が難解というか共感をあまり感じず、彼のピアノ曲全部を何度も聴いて分析するのはチトしんどかったです。

 

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