Ernesto Drangoschについて

 Ernesto Drangosch(エルネスト・ドランゴーシュ)は1882年1月22日、ブエノスアイレスで生まれた。両親はドイツからの移民で、父親はピアノなどを販売する音楽店を経営していた。幼い時からピアノを習った彼は正に神童で、9歳の時にはブエノスアイレスのプロのオーケストラと共演して、ベートーベンのピアノ協奏曲第1番のソリストを務めている。12歳でブエノスアイレス音楽院に入学し、フリアン・アギーレやアルベルト・ウィリアムスに師事した。

 15歳の1897年7月、ドランゴーシュはドイツに留学。ベルリン王立音楽院に、規定の最低年齢より1歳年少なのを特別に認められ入学し、ピアノ、和声、対位法、音楽美学などを本格的に学んだ。1900年に一時アルゼンチンに帰国するが、「ヨーロッパ賞」を受賞し、更に4年間の奨学金を得て再びベルリンに留学。ピアニストとしてドイツ中を演奏旅行し、ブゾーニの指揮でベルリンフィルとも共演するなど活躍した。また作曲家としても、彼のピアノ曲はドイツの出版社から出版された。

 1905年、ドランゴーシュはアルゼンチンに帰国。ブエノスアイレス音楽院で教鞭をとりつつ、ピアニストとして活躍した。彼は一晩の演奏会で4曲のピアノ協奏曲を弾き、1916年にはベートーベンのピアノソナタ全曲演奏会シリーズを行っている。彼が1918年6月から7月にかけて週1回、計8回行ったピアノリサイタル・シリーズのプログラムを見ると、第1週は全曲ワーグナーのオペラからのピアノ編曲もの(リストやビューローによる編曲ものからドランゴーシュ自身による編曲まで)、第2週はアルベニスの《イベリア》全12曲、第3週はリストの《超絶技巧練習曲集》全12曲、第4週はオール・ショパンで《ソナタ第2番》、《ソナタ第3番》、《スケルツォ第2番》など‥‥と凄いプログラムの連続で、現代のピアニストでも短い間でここまで続け様に大曲・難曲を演奏会で弾く人は殆どいないであろう。また彼はクラシック音楽の啓蒙のためにアルゼンチン各地を演奏旅行して回り、更に「シネマ・コンサート」と称して、無声映画のバックでベートーベンの交響曲を演奏する催しを行った。

 ドランゴシュは1905年に留学から帰国してからは欧米を再び訪れることはなかった。指揮者のトスカニーニには米国での共演を誘われたが、彼はそれを固辞している。1925年6月、ヨーロッパでのリサイタル、指揮、レコーディングの一連の招聘をやっと受けアルゼンチンを出発しようと準備していた矢先に、ドランゴーシュは風邪をこじらせ肺炎になり、1925年6月26日にブエノスアイレスで亡くなった。

 43歳で早世したドランゴーシュの作品数は多くなく、作品番号は32番までである。舞台作品ではオペレッタ "La gruta de los milagros, op. 29"(1921年完成)、オペラ"El carnaval, op. 30" (未完成)があるが、いずれも上演されたことはない。管弦楽曲には幻想的小組曲"Sueños de un baile, op. 11b"(1903)、"Obertura criolla, op. 20"(1920)などがある。ドランゴーシュはアルゼンチンの作曲家では初めてピアノ協奏曲を作曲していて、彼のピアノ協奏曲ホ長調, op. 12(1906-1912)は後期ロマン派の香り溢れる華やかな曲らしい。器楽曲ではヴァイオリンソナタト長調, op. 18(1915)など。いくつかの歌曲集も作っていて、ドイツ語のテキストによるものが多いのは、ドイツに留学した彼らしい。

 ピアノの名手であったドランゴーシュの作曲の中心はピアノ曲である。初演の記録のあるものでは、全ての初演者はドランゴーシ自身である。作風は大きく二つに分けられる。一つはドイツ後期ロマン派そのものといった曲で、作品14や作品21の演奏会用練習曲などは技巧的にも難しく、がっちりと作られている。もう一つは民族主義作曲家としての作品で、数は少ないが、タンゴやハバネラをピアノ曲に昇華させている。

 

Ernesto Drangoschのページへ戻る