Ernesto Elorduyについて

 エルネスト・エロルドゥイ・メディナ Ernesto Elorduy Medina は1855年12月11日、サカテカス州グアダルーペに生まれた(一部の資料では1853年または1854年生まれともなっている)。

 彼の父親は広大な土地や鉱山を所有する富豪であった。1871年に父親が亡くなったが、多額の遺産を相続したことで、兄エドゥムンドと共にヨーロッパに移住した。ヨーロッパの各国に移り住んだようで、ドイツのハンブルグではクララ・シューマンなどにピアノを師事したとのこと。またアントン・ルービンシュタインのクラスにも属し、ルービンシュタインはエロルドゥイを「私の高貴なアステカの友人 mi noble amigo azteca」と呼んでいたとのこと。1878年頃にはトルコやアラビア半島まで旅をしたらしい。1880年からはパリに住み、ショパンの弟子だったジョルジュ・マティアス George Mathias に師事した。1884年にはメキシコ政府の外交官に任命され、マルセイユ領事館(1884-1888)、サンタンデール領事館(1888-1890)、バルセロナ領事館(1890-1891)に勤務した。当時サンタンデール領事、バルセロナ総領事を勤めていた作家Manuel Paynoの娘Trinidadとエロルドゥイは1889年に結婚している。

 1891年に20年ぶりにメキシコへ帰国したエロルドゥイは数々のピアノ曲を発表。また1901年から1906年までは国立音楽院の教授も勤めた。

 1913年1月6日(または3日)に亡くなった。

 エロルドゥイの作品には、ルベン・M・カンポス Rubén M. Campos の台本によるオペラ《スレマ Zulema》(リカルド・カストロがオーケストレーション、1902年初演)、宗教曲《アヴェ・マリア Ave María》、いくつかの合唱曲や歌曲があるが、彼の大部分の作品はピアノ曲である。同時代の作曲家のフェリペ・ビジャヌエバ、フベンティーノ・ローサスらと同様、サロン風のピアノ曲を多数作曲しているが、作品数の多さからは19世紀メキシコ・サロン音楽作曲家の横綱級である。作曲技法や和声の面からは初期ロマン派あたりで、シューマン夫人やショパンの弟子に師事した割にはシューマンやショパンの作曲技法にも全然追い付いていない。また、彼のピアノ曲からは明らかなメキシコ民族主義が聴こえてくる訳ではないが、キューバのコントラダンサ由来のダンサをメキシコ風にした作品が多数あって興味深い。彼独自のロマンチシズムに満ちた作品はのんびりと気軽に聴くにはお薦めです。

 

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