Luis Antonio Escobarについて

 Luis Antonio Escobar Segura(ルイス・アントニオ・エスコバル・セグラ)は1925年7月14日、首都ボゴタ近郊にあるクンディナマルカ県Villapinzónに生まれた。彼が2歳の時に母親は亡くなっている。エスコバルの父親は息子を聖職者にしようと考え、エスコバルは小学校を卒業するとコロンビア南部のカリにあるフランシスコ会修道院に入れられ、一般教養から音楽まで幅広く学んだ。また修道院の合唱団の指揮者からヴァイオリンを習った。エスコバル少年は聖職者より音楽家になるために首都ボゴタに出ようと決意。いったん故郷のVillapinzónに帰ると、地元の人々はエスコバルのためにお金を出し合ってヴァイオリンを買ってくれたとの事。しかし学費の乏しいエスコバルは、15歳の時にはクンディナマルカ県Vianíに住み、同地の司祭の元で働いた。教会ではヴァイオリンやハーモニウム(リード・オルガン)を弾いていたが、まだあまり楽譜を読めなかったので、殆ど即興演奏だったとのこと。この頃に独学でピアノの練習や楽譜読みに励んだらしい。

 17歳でボゴタ国立大学音楽院に入学。ピアノ、オルガン、作曲などを学んだ。1947年頃、音楽院からの奨学金で米国ボルチモアにあるピーボディ音楽院に留学し、ニコラス・ナボコフに師事した。1948年に作曲した「コロンビアの主題によるヴァイオリンソナタ」は、コロンビア国内のコンクールで佳作を受賞している。米国留学中のエスコバルは経済的に苦しかったが、以前より行きたかったヨーロッパを訪問。ザルツブルグにあるモーツァルテウム大学の夏期講習会でドイツの作曲家ボリス・ブラッハーに会い、1951年にはベルリン芸術学校に留学しボリス・ブラッハーに作曲を師事した。ベルリンでChristine Haasisと結婚し、1954年にコロンビアに帰国した。

 エスコバルは帰国すると、作曲家として、また教育者として活躍。コロンビア交響楽団は彼の "フルートと管弦楽のためのコンチェルティーノ"、バレー音楽"Avirama" を演奏した。彼はハベリアーナ教皇大学の教授を務めたのに加え、国立大学音楽院でも作曲などを教えた。コロンビアの音楽史に関する著書も "La música precolombina"、"La música en Santafé de Bogotá"、"La música en Cartagena de indias" などが出版された。

 1957年にはグッゲンハイム奨学金を得て、再び米国に約2年間滞在した。米国で作曲したバレー音楽 "Preludios para Percusión" は有名なバレエ振付師ジョージ・バランシンの振付で、ニューヨーク・シティ・バレエ団により初演された。

 コロンビア帰国後は、コロンビア交響楽団総裁、コロンビア作曲家同盟代表などの要職を務めた。また1967年より1970年までドイツ・ボン駐在コロンビア領事に任官された。

 1976年にAmparo Ángelと結婚。彼女はエスコバルの作品の紹介に努め、またエスコバルはAmparo Ángelに献呈する「バンブケリア」などのピアノ曲を数多く作った。

 1993年7月31日、在マイアミ・コロンビア総領事館の文化担当領事に任命されマイアミに赴任したが、間もない同年9月11日にマイアミで亡くなった。

 エスコバルは多くの作品を残している。オペラは2作あり、子どものためのオペラ "La princesa y la arveja" (1957) と "Los hampones" (1961) がある。バレー音楽は "Avirama" (1955-6) と "Epitafio a Jorge Gaitán" (1962) がある。交響曲は第0番から第3番までの4作がある。協奏曲は、フルートと管弦楽のためのコンチェルティーノ (1957?)、チャンバロと弦楽合奏のためのコンチェルティーノ (1958)、ピアノ協奏曲第1番 (1959)、第2番 (1974)、第3番 (1981)、ヴァイオリン協奏曲 (1981)、クラリネット協奏曲 (1981) など。室内楽曲は弦楽四重奏曲第1番 (1952)、第2番 (1953) など。合唱曲も多く、合唱と管弦楽のための "Cántica de cantas colombianas" (1960) が代表作。映画音楽も手がけており、El milagro de sal (1958)、Mientras arde el fuego (1979)、Amazonas, infierno y paraíso (1980) などがある。

 

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