Luis Gianneoについて

 Luis Gianneoは1897年1月9日、ブエノスアイレスにて生まれた。父Domingo Gianneo、母Vicenta Pascuaは共にイタリアからの移民で、姉Ana Maria、Luisa、兄Miguelに続くGianneo家4番目の子であった。(Gianneoはスペイン語では「ヒアンネオ」という発音になるが、何かスペイン語の響きにしっくりこない。イタリア語読みの「ジャンネオ」の方が自然な気がするが、実際アルゼンチンではどちらの発音をされているのかな?。)子供の頃よりピアノや作曲を学んだLuisは、20歳頃にはヴァイオリニストとなった兄Miguelと組んでピアノを弾いていた。

 1921年、Luis Gianneoはピアニストで歌手のMaria Josefina Ghidoniと結婚した。後にCelia、Brunildaの2人の娘をもうけた。その頃、彼の姉Luisaの夫、チェリストのVicente Vernavaはトゥクマン音楽院の教師をしていた。1923年、義兄の誘いを受けたLuis Gianneoは妻と共にアルゼンチン北部のトゥクマンに移り住み、同地の音楽院で教鞭をとり、ピアノと和声を教え、地元のオーケストラの指揮や教会のオルガニストを務めた。妻Josefina Ghidoniもピアノを教え、また夫のピアノ曲のいくつかを初演している。トゥクマン在住は1942年まで続き、その間こそLuis Gianneoの作曲家としても最も充実した時期で、彼の代表作が作られた。また娘のCeliaはピアニストに、Brunildaはヴァイオリニストになった。

 当時、アルゼンチンの進歩的な作曲家であるGilardo Gilardi、Juan José Castro、José María Castro、Jacobo Ficher、Juan Carlos Pazは、Grupo Renovación(新しい集団)というグループを1929年より結成していた。Gianneoも1932年にこの作曲家グループに加わり、Grupo Renovación第8回演奏会(1932年11月16日)で、ピアノ曲 "Canto del altiplano(おそらくEn el altiplanoと同作品)" が初演された。第10回演奏会で初演されたピアノ曲 "Suite" はGrupo Renovaciónより出版もされた。その後1944年まで続いたGrupo Renovación演奏会では、いくつかのGianneoの作品が初演されている。しかし、他の作曲家の急進的な姿勢とGianneoの作風は相容れなかったようである。

 1937年、国立文化委員会はLuis Gianneoにヨーロッパ留学の給費を与える決定をした。同年12月31日、彼はブエノスアイレス港を出航する船に家族と共に乗り込み出発。1938年1月18日にイタリアのナポリに到着した。アルゼンチンにいた頃より車の運転が好きだった彼は、3月にはローマで自動車を手に入れ、自ら運転し、その後の行程は留学というよりかはヨーロッパ周遊旅行(?)である。ローマを出発したGianneo一家はフィレンツェ、ボローニャ、ベネチア、パルマ、ミラノ、トリノ、ジェノヴァを訪れ、5月にはフランスに入り、ニースを通って、7月にパリに到着。その後ルクセンブルグ、ベルギーと旅をして、ドイツに入ってからは、ボン、アイゼナハ、ライプツィッヒ、ベルリン、ニュルンベルグ、ミュンヘンを訪問。オーストリアに入ってからは、ザルツブルグ、リンツ、インスブルックを、スイスではルツェルン、ベルンを訪れた。やっとローマに戻り、ナポリ港から帰国の船に乗り、アルゼンチンに帰ったのは1939年1月22日のことであった。優雅な自動車旅行のように見えるが、その間にもトリノでは王立音楽院オーケストラの指揮をして自作の交響詩 "Turay-Turay" を演奏したり、何よりパリではピアノ曲や交響曲第1番を作曲している。1939年9月には第二次世界大戦が勃発しており、大戦前夜のヨーロッパはGianneoにはどのように映ったであろうか?。

 Gianneo一家は帰国してトゥクマンに戻ったが、1943年よりは首都ブエノスアイレスに移り住んだ。ブエノスアイレスでは彼の名声は一層高まっていった。いくつものオーケストラの指揮者をし、国立音楽院で教鞭をとり、Rodolfo ArizagaやAriel Ramírezを指導した。ピアノやソルフェージュの本を執筆した。1949年にはアルベルト・ヒナステラが前年に創立したラ・プラタ音楽演劇院の器楽・和声・作曲の教授に招聘された。更に、1955年には国立音楽院の院長に就任した。

 1955年9月14日、妻Josefina Ghidoniが亡くなった。しかし、1960年2月3日に2番目の妻となるInés Rosa Sayansと結婚。同年には、アルゼンチン教育省よりの派遣で22年ぶりにヨーロッパを新妻を連れて訪問、2年をかけてフランス、スイス、イタリアなどの音楽教育を視察した。1961年6月にはローマでInés Sayansとの間に息子Luis Alejandroが生まれている。

 1967年には妻子を連れて3度目のヨーロッパ訪問をした。アルゼンチンに戻ってから8ヶ月後の1968年8月15日、ブエノスアイレスで死去した、享年71歳。

 Luis Gianneoは、多くのジャンルに作品を残している。管弦楽曲では、交響詩 "Turay-Turay" (1927)、交響詩 "El tarco en flor" (1930)、交響曲第1番 (1938)、バレエ曲 "Blancanieves" (1939)、"Pericon" (1948)、"Suite coreografica" (1949)、"Variaciones sobre tema de tango" (1953)、交響曲 "Antífona" (1963) など多数あり。協奏曲では、ピアノ協奏曲 (1941)、ヴァイオリンのためのアイマラ協奏曲 (1942)がある。室内楽曲では、弦楽四重奏曲1~4番、ピアノトリオ1、2番、ヴァイオリンソナタ、チェロソナタなど。歌曲では、バリトンと管弦楽のための "Transfiguración" (1944)、ソプラノと室内管弦楽のための "Angor Dei" (1962)など。

 Gianneoは自身がピアニストでもあり、Ejericicios tecnicos para piano(ピアノのテクニックの練習、1929)という著書がある位であってピアノ作品は多い。彼の作風には変遷があって、1910年代はロマン派や初期のドビュッシーの影響が強く、分かりやすいがちょっと個性に欠けるかな、といった作品が多い。1923年よりトゥクマンに住んでいた20年間の作品は民族主義作曲家として魅力的な代表作を作った時期で、ピアノ曲では新古典主義が混じるも、Preludios criollos、Suite、Tres danzas argentinas、Sonata No. 2などの優れた作品がある。ブエノスアイレスに居を構えてからは徐々に民族主義は薄れ十二音技法などに傾いていき、Sonata No. 3やSeis Bagatelasなどは和声的にも難解である。Gianneoのピアノ曲を聴いていると、彼はメロディーメーカーとも言えず、人に媚びるような艶かしい調べもあまりないので、生前の輝かしい経歴の割には現在その作品があまり演奏されないのも已むなしかな、と思う。とはいえ一流の作曲家らしく技法はしっかりしており、アルゼンチン音楽に興味を持つ方なら、まずは聴いてみて欲しいものです。

 

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