Radamés Gnattaliについて

 ハダメス・ニャタリ Radamés Gnattaliは1906年1月27日、ブラジル南部のリオグランデ・ド・スル州ポルト・アレグレに生まれた。この生年月日はかの有名なヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの生年月日のちょうど百五十年後である。彼の名前はブラジル・ポルトガル語では一般的にハダメスと発音するが、古い録音を聞くとラダメス(ラは巻き舌)と発音している。また苗字はニャにアクセントが来るのでニャッタリとも聞こえる、またニャターリと表記していることもある。父親のAlessandro Gnattaliは1896年にイタリアから移住しており、ピアノやファゴットが演奏でき、音楽教師や指揮者をしていた。Alessandroは大のオペラファンで、特にヴェルディが好きだった為に自分の息子の名を、ヴェルディのオペラ《アイーダ》の登場人物 "Radamés" にしたそうな。ちなみに、Alessandroは続いて生まれた息子や娘の名を "Ernani"、"Aida" としている。両親から音楽を習ったハダメス・ニャタリは3歳にして玩具のヴァイオリンを弾き、3〜4歳からピアノを習い、9歳の時には子どもオーケストラの編曲・指揮をしてイタリア領事からメダルを貰っている。

 14歳の時に地元ポルト・アレグレの音楽院に入学し、ピアノやヴァイオリン、和声などを勉強した。その一方で街のカーニバルのパレードに参加するのも好きで、Luiz Cosmeらの友人達と「大げさ者 Os Exagerados」という名のバンドを結成し、さすがにパレードにはピアノは持っていけないので彼はカヴァキーニョを弾いていた。16歳の頃には映画館で演奏して生計を立てていた。

 1924年、ポルト・アレグレの音楽院を卒業したニャタリはリオデジャネイロに出た。リオデジャネイロは新しい音楽に満ち溢れており、ニャタリにとって刺激的であったであろう。彼はシネ・オデオンのロビーでピアノを弾いていたナザレにも会った。ナザレは "Galeria Cruzeiro" という文具・楽器店でもピアノ弾きをしていて、ニャタリがある日 "Galeria Cruzeiro" でピアノを弾いてみせたらナザレは興味を示したとのことである。ニャタリは1924年7月、リオデジャネイロの国立音楽学校で初めてのピアノリサイタルを開き成功、翌年にはサンパウロでも演奏会を開いた。

 その後ポルト・アレグレに戻りピアノ教師として生計を立てつつ、エンリキ・オスワルド弦楽四重奏団にヴィオラ奏者として加わり、モーツァルト、ベートーベン、メンデルスゾーンなどを弾いていた。この弦楽四重奏団での経験は彼にとって、管弦楽法などを知る良い機会となったらしい。

 1930年、バルガスが大統領に就任し、愛国的「ブラジル化」政策が執られ、芸術の分野では民族主義が流行した。この頃に再びリオデジャネイロに出ていたニャタリも《ブラジル狂詩曲 Rapsodia brasileira》などの民族主義的影響を受けた作品を作っている。ニャタリの望みはクラシックのコンサート・ピアニストになることであり、1932年にはチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番のソリストとして演奏したことなどもあったが、演奏会のチャンスは少なく、生計を立てるためにダンスホールやラジオ局での編曲の仕事で収入を得た。またVeroというペンネームで《Espritado》、《Urbano》などのショーロを作曲した。

 1932年、ニャタリはピアニストのVera Maria Bieri結婚して、後に2人の子どもをもうけた。

 1936年、リオデジャネイロに国立ラジオ協会 Sociedade Rádio Nacional が開局した。ニャタリはこのラジオ局でのピアニストやアレンジャーを長く務めた。更に1943年にはRádio Nacional制作の新しい音楽番組「百万のメロディー Um Milhão de Melodias」の音楽担当を任された。この番組では国内外の多数の曲が紹介されたが、彼は「ハダメス・ニャタリ・ブラジル・オーケストラ Orquestra Brasileira de Radamés Gnattali」という楽団を結成し、質の高い、かつブラジル的な編曲を施して指揮した。番組は13年間続き、ニャタリは多い時には週に9曲の編曲を作ったとのこと。また1954年に始まった「作曲家達が出会う時 Quando os Maestros se encontram」という番組の中で、ニャタリはあの若きトム・ジョビンをピアノに座らせ、励ましている。

 ニャタリの仕事のメインはラジオ局でのアレンジャーだったが、彼は自分で「ポピュラー音楽は好きだけど、もし選べるんだったなら私はクラシック音楽の仕事をしていたさ」と言っていたらしく、1935年には自作の《ピアノ協奏曲第1番》を初演、1939年には《弦楽四重奏曲第1番》を作曲、1945年には管弦楽のための《ブラジリアーナ第1番 Brasiliana nº 1》がイギリスのBBC交響楽団によって録音された。1952年にはリオデジャネイロで「フェスティバル・ハダメス・ニャタリ」と題されたニャタリの作品のみによる演奏会が催され、彼の《チェロソナタ第1番》や《ギターコンチェルティーノ第2番(ピアノ伴奏版)》などが演奏された。1953年にはニャタリの《ギターコンチェルティーノ第2番》の管弦楽完全版がリオデジャネイロの市立劇場で演奏、今までポピュラー音楽としてのみ親しまれてきたギターがこのような大劇場で演奏されるのはブラジルでは殆ど初めてのことであった。1953年には《エレキギターとピアノのためのブラジル大衆の組曲 Suíte popular brasileira》を作曲、その後も《ハーモニカ協奏曲》(1958)、《アコーディオン協奏曲》(1977) といったジャンルを越えた斬新な作品を作り続けた。

 ピアニストとしても、1960年にはQuarteto Continentalのメンバーやピアニストである彼の妹Aidaらと共に「ハダメス・ニャタリ六重奏団 Sexteto Radamés Gnattali」を結成し、ヨーロッパ演奏旅行を行った。

 1965年に妻Vera Maria Bieriが死去。1967年より歌手・ピアニスト・俳優であるNelly Martins(本名Nelly Biato、1936-2021)とニャタリはピアノデュオで度々共演し、二人は1968年に2台ピアノで共演するLPをリリースした。ニャタリとNelly Martinsは1978年に結婚した。

 1976年にはニャタリの70歳を記念して、演奏時間24分の大作である~混声合唱と管弦楽とナレーターによるカンタータ《Maria Jesus dos Anjos》が録音された。

 1983年には「シェル賞」を受賞。記念ガラコンサートはリオデジャネイロ市民劇場で行われ、ニャタリ自身がリオデジャネイロ交響楽団を指揮した。

 1988年2月13日、脳卒中のためリオデジャネイロで死去した。

 ニャタリは生前は編曲家やムジカ・ポプラール・ブラジレイラ (MPB) の作曲家として有名で、彼のことを「ブラジル音楽界の黒幕」と呼ぶ人もいる位です。約二百曲あると言われるポピュラー曲は(私も一部しか知らないのですが)リオデジャネイロの浜辺やナイトクラブの豪華な夜を想像させるイイ雰囲気の曲に満ちています。
 クラシック系(と言っても彼の作品をジャンル分けするのは相応しくないのだが)の作品も数多く、代表作は、まず13曲から成る連作《ブラジリアーナ Brasiliana》で、《第1番:管弦楽》(1944)、《第2番(別名:3つのテンポによるサンバ Samba em três andamentos):ピアノ・打楽器と弦楽オーケストラ》、《第3番:管弦楽》(1948)、《第4番:ピアノ》(1949)、《第5番:ピアノ》(1949)、《第6番:ピアノと管弦楽》(1954)、《第7番:テナーサックスとピアノ》(1956)、《第8番:2台ピアノ(2台ギター版および管弦楽版もあり)》(1956)、《第9番:チェロ・太鼓と小管弦楽》(1960)、《第10番:管弦楽》(1962)、《第11番:8台のチェロとピアノ(管弦楽版もあり)》(1966)、《第12番:2台ピアノと弦楽オーケストラ》(1967-1968)、《第13番:ギター》(1983) から成る。各曲ごとに楽器編成が異なるのはヴィラ=ロボスの連作《ショーロス》や《ブラジル風バッハ》と同じで、おそらく影響を受けているのであろう。
 その他の彼の作品の一部を列挙すると、管弦楽曲では《大衆の交響曲 Sinfonia popular 第1番、第2番、第3番、第4番、第5番》(1956, 1969, 1969, 1974-1975, 1983) などがある。ニャタリはジャンルを越えた協奏曲を多く作曲していて、前記の作品以外にも《ピアノ協奏曲第1番、第2番、第3番 (seresteiro)、第4番 (no estilo popular)》(1934, 1936, 1961, 1966)、《ピアノと管弦楽のためのロマンティックな協奏曲 Concerto Romântico》(1949)、《ギターコンチェルティーノ第1番、第2番、第3番》(1951, 1951, 1957)、《2台ギターとオーボエのための協奏曲》(1970)、《ヴァイオリン協奏曲第1番、第2番、第3番》(1947, 1961, 1969)、《チェロ協奏曲》(1941)、《ピアノ・エレキギターと管弦楽のためのカリオカ協奏曲第1番 Concerto carioca nº 1》(1950)、《ピアノ・コントラバス・ドラムと管弦楽のためのカリオカ協奏曲第2番 Concerto carioca nº 2》(1964)、《ハープ協奏曲》(1957)、《ギターと弦楽オーケストラのためのConcerto de Copacabana》、Jacob do Bandolimの為に作られた《バンドリンと弦楽オーケストラのための組曲「肖像」 Suíte Retratos》(1956-57) などなど。室内楽曲では《ピアノ五重奏曲》(1931)、《木管五重奏曲》(1971)、《弦楽四重奏曲第1番、第2番、第3番、第4番》(1939, 1943, 1963, 1968-1969)、《ピアノトリオ第1番、第2番、第3番》(1932, 1967, 1984)、《フルートとギターのためのソナタ》(1959) と《チェロとギターのためのソナタ》(1969)、《チェロとピアノのためのソナタ第1番、第2番》(1935, 1973) など。これほど様々な楽器編成の作品を作った作曲家は他には殆どいないでしょう。

 ニャタリは自身がピアニストで、演奏家としても活躍しただけあって様々なピアノ曲を作っている。大雑把に分類すると、ポピュラー風の小品とがっちりとしたクラシック系(?)作品から成る。前者のピアノ曲は約10曲が知られていて、ショーロやヴァルサを元にしつつ九度の和音の多用などジャズの影響も加わり、ともかくリズムも和声も粋でお洒落で、大人の音楽といった雰囲気。アムランなどクラシックのピアニストにも弾かれており、今や静かなブームになっているかな。後者のピアノ曲には組曲が多く、《ブラジル狂詩曲》や《ブラジリアーナ第4番、第5番、第8番》といった民族色濃い作品から、《10のワルツ集》、《トッカータ》、《舞踊のソナチネ(4つの踊りの楽章)》のような高度な作曲技法を駆使した作品まである。ピアノ曲に限ったことではないが、ニャタリの作風はかようにも多彩であり捉え所がない。が、その根底に流れるのはやはり「ブラジルの心」に思えます。

 

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