Carlos Gomesについて

 アントーニョ・カルロス・ゴメス Antônio Carlos Gomes は1836年7月11日、サンパウロ州ヴィラ・ジ・サン・カルロス(現在のカンピーナス)に生まれた。彼の父方の曽祖父はスペインからの移民で、また(定かではないが)父方の祖母はグアラニー族だったとする説がある。一方、彼の母の名前はFabiana Jaguari Cardosoで、Jaguariという母方由来の苗字より、カルロス・ゴメスの母方の祖母はグアラニー族であったことが確からしい。彼の父は地元の聖歌隊の指揮者をしており、カルロス・ゴメスは子どもの頃より父から音楽を学び、クラリネット、ピアノ、ヴァイオリンを習った。18歳の時にはミサ曲を作曲しており、20歳頃にはピアニストとしてブラジルの各地で演奏していたとのこと。

 1859年頃にゴメスはサンパウロにしばらく滞在した後、リオデジャネイロに出て当地の音楽院に入学。イタリア出身の指揮者ジョアッキーノ・ジャンニーニ Gioacchino Giannini に作曲を師事しつつ、歌曲や宗教曲を作曲し続けた。1860年には彼の作ったカンタータ《Salve dia de ventura》がブラジル皇帝ペドロ2世の御前で演奏され、金メダルを授与された。1861年には帝国劇場の副指揮者に就任。同年にはゴメスの最初のオペラとなる《城の夜 A noite do castelo》がリオデジャネイロ・リリック劇場で上演され、このオペラによりゴメスは「帝国バラ勲章勲六等 Imperial Ordem da Rosa, no grau de Cavaleiro」を与えられた。1863年には二作目のオペラ《フランドルのジョアナ Joana de Flandres》が上演された。これらの成功によりゴメスは奨学金を得ることとなり、同年12月にイタリア留学に出発した。1864年2月、ミラノに着いたゴメスは年齢が高すぎるためミラノ音楽院(ヴェルディ音楽院)には入学できなかったが、同院院長のラウロ・ロッシ Lauro Rossi に個人的に作曲を師事した。1866年には同院作曲科の卒業試験を受け合格。同年にはレヴュー(オペラに似た大衆向けの音楽劇)《何も分からない Se sa minga》を作曲し、12月に上演されると成功し、その後イタリア国内のいくつもの劇場で上演された。

 この頃、ゴメスはブラジルを舞台としたオペラを作りたいと考え、ブラジルの作家のジョゼ・ジ・アレンカール José de Alencar (1829-1877) が書いた歴史小説『グアラニー族 O Guarany』(1857) を題材に選んだ。イタリア語による台本はイタリア人のアントニオ・スカルヴィーニ Antonio Scalvini に依頼し、1865年には台本の一部がゴメスに送られているが、その後スカルヴィーニが途中で執筆を放棄してしまったため、残りの台本はカルロ・ドルメヴィッレ Carlo d'Ormeville により書かれて完成。ゴメスは音楽を1869年にほぼ完成し、16世紀のブラジルを舞台としたイタリア語のオペラ《グアラニー族 Il Guarany》は1870年3月にミラノ・スカラ座で初演され、大成功を収めた。作曲家のジュゼッペ・ヴェルディは「私の到達点が、この若者の出発点である questo giovane comincia da dove finisco io」と賛辞を贈り、イタリア王国の国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はゴメスにイタリア王冠勲章を与えた。楽譜出版社F. Luccaはこのオペラの版権を買取り、楽譜が出版された。同年、《グアラニー族》はブラジル皇帝ペドロ2世の誕生日である12月2日にリオデジャネイロでも上演された。

 1871年、ゴメスはピアニストのAdelina Periと結婚し、5人の子どもをもうけた。

 その後、アントニオ・ギスランツォーニ Antonio Ghislanzoni の台本によるオペラ《フォスカ Fosca》を作曲し、1873年にスカラ座で上演されるも、ワーグナーのオペラのようなライトモチーフを用い、対位法を駆使したこのオペラは成功しなかった。一方、作風を単純にして作曲したオペラ《サルヴァトール・ローザ Salvator Rosa》は1874年に上演されると成功。後にゴメスは「《グアラニー族》はブラジル人のために、《サルヴァトール・ローザ》はイタリア人のために、《フォスカ》は専門家のために作曲した」と語っている。(後にゴメスは《フォスカ》の改訂版を作り、1878年にスカラ座で上演されると、今度は成功した。)

 1876年、ゴメスは米国を訪問した。これに先立ちブラジル皇帝ペドロ2世はゴメスに米国独立百周年を記念する管弦楽曲を作るように命じ、ゴメスは合唱と管弦楽のための《ブラジルからのご挨拶 Il Saluto del Brasile》を作曲、フィラデルフィアとニューヨークで演奏された。

 1878年、ゴメスはミラノ近郊のレッコ県マッジャニーコに「Villa Brasilica」という名の邸宅を構えた。邸宅の広大な庭園は宛らブラジルのジャングルのようで、そこには多くの鳥や猿が飼われていたとのこと。1879年にはヴィクトル・ユーゴーの戯曲『マリー・チュードル Marie Tudor』を基にして作られたオペラ《マリー・チュードル Maria Tudor》がミラノ・スカラ座で上演された。

 1880年、ゴメスはブラジルに一時帰国した。バイーア州サルヴァドール、パラー州ベレン、リオデジャネイロ、サンパウロでゴメスのオペラが上演され、ゴメスは各地で歓待された。同年末にミラノに戻るが、1882年にブラジルに再び一時帰国するなど、以降は晩年までイタリアとブラジルを度々行き来した。1888年にブラジル皇帝ペドロ2世が外遊でミラノを訪れた際には、ゴメスはペドロ2世のための演奏会を催している。同年にペドロ2世の長女イザベルは、父の外遊中に摂政としてブラジルの奴隷廃止法に署名した。以前より奴隷制廃止の活動家でもあったゴメスはブラジルを舞台とした新作のオペラ《奴隷 Lo Schiavo》をイザベルに献呈し、同作品はゴメス臨席のもと1889年9月にリオデジャネイロ上演された。(但し、ブラジルの子爵タウナイ visconde de Taunay が書いたポルトガル語の台本は、イタリア人の台本作家によって翻訳される時に舞台設定を1801年から1567年に、主役を黒人からブラジル先住民へ変えられてしまった。)ゴメスは同年10月に「帝国バラ勲章勲二等 Imperial Ordem da Rosa, Comenda de Grande Dignitário」を与えられたが、同年11月に軍部のクーデターによりペドロ2世は廃位となり、皇帝一家はフランスへ亡命した。

 1890年、ブラジルの皇帝の庇護を失ったゴメスはミラノに戻った。1891年、オペラ《コンドル Condor》がスカラ座で上演された。1892年にはゴメス最後のオペラとなる《コロンボ(コロンブス)Colombo》が、ブラジルに一時帰国したゴメスを迎えてリオデジャネイロで上演された。1893年には米国シカゴで行われた世界コロンビア万国博覧会にブラジルを代表して出席し、自作の演奏会の指揮を行った。

 1895年頃よりゴメスは舌癌に侵されていた。1896年4月にポルトガルのリスボンで手術を受けたが結果は思わしくなく、5月にゴメスはブラジルに帰国。同年9月16日、ベレンで亡くなった。ベレンでは盛大な葬儀が行われ、また同年10月にはミラノの教会で彼を追悼するミサが行われた。

 ゴメスは上述の通りオペラ作曲家として有名である。完成し上演された9本のオペラ名を挙げると、《城の夜》(1861)、《フランドルのジョアナ》(1862-3)、《グアラニー族》(?-1870)、《フォスカ》(1872)、《サルヴァトール・ローザ》(1874)、《マリー・チュードル 》(1878)、《奴隷》(1883-9)、《コンドル》(1890-1)、《コロンボ(コロンブス)》(1892) となる。また2本のレヴュー〜《何も分からない》(1866)、《月で Nella luna》(1867) を作曲した。またオペラ作曲家らしく、数十曲の歌曲を残している。その他では、吹奏楽曲《自由なセアラー州へ、民衆の行進曲 Ao Ceará livre!, Marcha popular》(1884) はブラジル全土の奴隷制廃止に先立つ4年前に、セアラー州が奴隷制を廃止したことを記念して作った作品である。弦楽五重奏曲《弦楽器のためのソナタ「木の小さなロバ」Sonata para cordas "O burrico de pau"》(1894) や、ミサ曲《聖セバスチャンのミサ Missa de São Sebastião》(1856) などの宗教曲も作曲した。

 ゴメスはまとまった数のピアノ曲を作っている。大部分はオペラのアリア風だったり、サロン音楽風だったりで、19世紀オペラ作曲家の作風としてはむべなるかなである。また初期のピアノ曲には黒人を題材としたものがある。ゴメスが育ったヴィラ・ジ・サン・カルロス(カンピーナス)にはファゼンダ(大農園)がいくつもあり、ゴメスはそこで働く黒人奴隷の姿を見ていたのだろう。但しゴメスが作曲したそれらのピアノ曲はヨーロッパのサロン音楽の範疇に止まったもので、真のアフロ・ブラジル音楽は殆ど聴かれず、当時のゴメスのような白人上流階級と黒人の間では、同じ土地に暮らしながらも文化的な壁がまだ大きかったことを窺わせる。

 

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