Chiquinha Gonzagaについて
シキーニャ・ゴンザーガ Chiquinha Gonzagaは本名をフランシスカ・エドヴィジス・ネヴィス・ゴンザーガ Francisca Edwiges Neves Gonzaga といい、1847年10月17日にリオデジャネイロに生まれた。父ジョゼ・バジレウ・ネヴェス・ゴンザーガ José Basileu Neves Gonzaga は軍人(写真を見ると勲章だらけで高級軍人らしい)で裕福な家庭だった。一方、母Rosa Maria de Limaは混血で、母方の親は黒人奴隷だった。シキーニャ・ゴンザーガが生まれた時、両親は結婚しておらず、生後八ヶ月経って父は娘を認知して結婚したらしい。子どもの頃から彼女はピアノを習い、11歳のクリスマスの時には既に《羊飼いの歌 Canção dos Pastores》という歌を作曲をしている。
1863年、16歳のシキーニャ・ゴンザーガは父の決めた24歳のJacinto Ribeiro do Amaralという男性と結婚。翌1864年に長男João Gualberto、1865年に長女Maria、1870年に二男Hilárioを出産した。しかし夫が音楽嫌いだったらしく、彼女は1870年頃に離婚してしまった。
離婚して家を飛び出し、父には勘当され、また長女と二男の親権も奪われてしまったゴンザーガは音楽家として生きていくことを決意、ピアノ教師をしながら作曲活動を行った。同時期の作曲家・フルーティストのジョアキン・カラード Joaquim Callado (1848-1880) と知り合い、彼のピアノ曲《皆の愛しい女性 Querida por todos》(1869) はゴンザーガに献呈されている。1870年頃よりは鉄道建設の技師João Batista de Carvalho (1844-1918) と同棲、ミナスジェライス州の彼の鉄道建設について行った。1875年には彼との間に娘Aliceを出産したが、その翌年頃には彼とも別れたとのことである。
その後ゴンザーガはカラードのショーロ楽団 "O Choro do Calado" でピアニストを務め生計を立てた。1880年の新聞には「Francisca Gonzagaはピアノ・歌・フランス語・地理・歴史・ポルトガル語を教えます」という広告が見られる。
作曲家としては、1877年には彼女のピアノ曲《魅力的な Atraente》が始めて出版され好評を博した。1885年1月17日にはゴンザーガ作曲のオペレッタ《田舎の宮廷 A corte na roça》が彼女自身の指揮で、リオデジャネイロの帝国劇場で初演された。その後も数々のオペレッタなど劇場作品を作曲し、自ら指揮して、彼女は「スカートを履いたオッフェンバック Offenbach de saias」とも呼ばれるようになった。
1899年、ゴンザーガはポルトガル出身の青年João Batista Fernandes Lage (1883-1961)〜1870年代に同棲した男性と偶然にも同じ名前だ〜と同棲するようになる。João Batista Fernandes Lageはゴンザーガより36歳年下で、二人は、愛人のような親子のような関係で生涯一緒に暮らしたとのこと。同1899年、シキーニャ・ゴンザーガはリオデジャネイロのアンダライ地区に引っ越した。そこはカーニバルのパレードが盛んな所であった。ある日、自宅に居た彼女は「ホーザ・ジ・オウロ Rosa de Ouro」というコルダォン(1880年代から1910年代にかけて存在したカーニバルのグループの一形態)がカーニバルの練習をしているのを聴いた。そこで彼女はピアノの前に座りこのコルダォンのための歌を作曲した。この歌《さあ、道を開けなさい Ó abre alas》はカーニバルで大変な好評を博し、その後数年間にわたってカーニバルで歌われただけでなく、アルゼンチンにまで広まりヒットした。
1902年、1904年、1906年~1909年にはポルトガルに滞在。ゴンザーガのオペレッタはポルトガルでも上演され、好評を博したとのこと。
1911年には "Grupo Chiquina Gonzaga" というショーロ楽団を結成し、この楽団の演奏で当時始まったばかりのレコード録音を行っている。1912年にはシキーニャ・ゴンザーガが音楽を作ったブルレッタ《フォホボドー(浮かれ遊び)Forrobodó》が初演され、大成功を収めた(ブルレッタ burletta とは短い喜劇仕立てのオペラのこと)。特にこの劇中で歌われる一曲は、後に別の歌詞が付けられて〈白い月 Lua branca〉という曲名で有名になった。更に1915年にはブルレッタ《セルタネージャ Sertaneja》、1919年にはオペレッタ《ジュリチ Jurity》が上演された。
作曲家以外にもシキーニャ・ゴンザーガは各方面で活躍した。若い頃は奴隷制廃止と共和制を唱えた活動家でもあった。また作曲家の著作権の確立にも尽力し、1916年にはブラジル議会で著作権法が制定され、また1917年にはブラジル劇作家協会 Sociedade Brasileira de Autores Teatrais (SBAT) の発起人の一人となった。1925年には彼女の功績を讃え、SBATはシキーニャ・ゴンザーガ・フェスティバルを催した。
彼女は晩年近くまで作曲を続けた。彼女の最後の作品であるオペレッタ《マリア! Maria!...》は1933年、85歳の時の作品である。1935年2月28日、シキーニャ・ゴンザーガはリオデジャネイロの自宅で死去。享年87歳。
シキーニャ・ゴンザーガは多作家で、作品総数は約300曲と言われている。オペレッタ、ブルレッタ、レヴュー、サルスエラといった劇場作品だけでも(他作曲家との共作も含めると)約70本を作っていて、代表作に《田舎の宮廷》(1884)、《何か新しいことはありますか? Há alguma novidade?》(1886)、《Zizinha Maxixe》(1895初演)、《愛の操縦 Manobras de amor》(1911初演)、《フォホボドー(浮かれ遊び)》(1911)、《女子中学校 Coléxgio de senhoritas》(1912初演)、《嘘と自慢話 Pomadas e farofas》(1912初演)、《Pudesse esta paixão》(1912)、《フォホボドーの後に Depois do Forrobodó》(1913初演)、《セルタネージャ》(1915初演)、《ジュリチ》(1919初演)、《マリア!》(1933初演) がある。歌曲も多数作曲している。しかし現在、我々がCDなどで聴くことのできるのは彼女の膨大なピアノ曲の一部で、どれも数分の小品である。作曲技法的には凝った所など殆どないが、ブラジル庶民のリズムであるマシーシ(タンゴ・ブラジレイロ)などを用いた親しみやすい旋律の曲は理屈抜きで楽しく、私にはブラジル音楽史の中でも切ってのメロディーメーカーに思えます。ナザレと並ぶ「ブラジルの魂」と呼んでいい作曲家として、もっと知られるようになればと思う。