Carlos Guastavinoについて

 カルロス・ビセンテ・グアスタビーノ Carlos Vicente Guastavino(グァスタビーノとかガスタビーノとか表記されていることもあり)は1912年4月5日、父Eusebio Amadeo Guastavinoと母Josefina Porouciniとの間に生まれた。生地サンタ・フェは首都ブエノスアイレスより北西に約400キロにあり、現在は人口約30万の地方都市だが、グアスタビーノが生まれた頃は人口5万程度で、「町の中心まで僅か8ブロックだが舗装もされてない通り」沿いの家だったとのこと。父はギターが弾け、母はマンドリンが弾けたとのことで、グアスタビーノは音楽的な環境で育った。彼は後になって「子供の頃に叔父のPedroが歌っていた民謡の節を覚えている」と語っていたと。4歳からは地元のピアニストのエスペランサ・ロートリンゲル Esperanza Lothringer (1885? 1887?-1960) にピアノを習い、5歳の時にはロートリンゲル門下生の発表会でピアノを弾いている。8歳でサンタ・フェの音楽院に入学した。その後彼は科学者を目指し、18歳よりサンタ・フェのリトラル国立大学 Universidad Nacional del Litoral で化学を約4年間学んだ。しかし同時にピアノの練習も続けていて、地元でピアノ演奏会を度々催していた。結局、彼は音楽の道を志すことになり、1938年には奨学金を得てブエノスアイレスに移り、最初は国立音楽院に数カ月通ったが、その後作曲家のアトス・パルマ Athos Palma に個人的に作曲を、ラファエル・ゴンザレス Rafael González にピアノを師事した。また一時、ブエノスアイレスのコロン劇場での歌手の伴奏ピアニストの仕事に就いていた。グアスタビーノは作曲家としてとみならずピアニストとしても優れていて、1947年にはイギリスBBCの招きでロンドンを訪れ、自作曲を含む演奏会を開いた。その後ブリティッシュカウンシルの奨学金を得て、1948年末から1949年8月にかけて再びイギリスに滞在し、演奏会を開いたとのことである。1956年にはソビエト連邦、中国、チェコスロバキアを演奏旅行し、自作のピアノ曲と歌曲を披露した。モスクワではボリショイ劇場で演奏会を催し、中国は広州、上海、武漢、瀋陽、北京で演奏会を行い、チェコスロバキアのプラハではテレビ局での演奏を行ったとのことである。

 その後も彼は次々と歌曲やピアノ曲を作り続け、また国立音楽院やブエノスアイレス市立音楽院の和声学教授などを務めた。当時のアルゼンチンを代表する国際的作曲家と言えば、ヒナステラとピアソラの名前がまず挙げられるであろう。ヒナステラは自ら切り拓いた現代音楽の語法とアルゼンチン民族主義の間で斬新な作品を次々と発表し、またピアソラは「タンゴの破壊者」と呼ばれるくらい新しいタンゴの世界を切り拓き、時代の寵児となっていた。それに比べ、前世紀の和声で歌曲やピアノ曲といったロマンティックな小品ばかり書いていたグアスタビーノは、アルゼンチンの一般の音楽愛好家には好かれても、音楽界のアカデミックな人達からは批判され、孤立した存在であったであろう。彼が孤独なのは音楽だけではなく私生活も同様である。グアスタビーノは生涯独身で、私生活がどうだったかはあまり分かっていない。Buenos Aires Herald誌2001年1月7日号によると、1983年当時、ブエノスアイレスの彼のアパートの部屋は僅か32平方メートルで、部屋のツィマーマンのアップライトピアノは隣人の迷惑にならないようにダンパーにパッドを入れていたとのこと。(この質素なアパートに彼は1997年まで数十年住み続けた。)1997年に彼は故郷サンタ・フェに戻り、2000年10月28日サンタ・フェで亡くなった。享年88才であった。

 生前グアスタビーノは、アルゼンチン司法教育省、ブエノスアイレス市役所、サンタフェ県文化委員会、雑誌 "Vosotras" などから数々の賞を受けている。しかしアルゼンチン国外では一部の歌曲が知られている程度で、ましては日本では最近まで殆ど知られていなかった作曲家である。

 グアスタビーノの作品を紹介すると、管弦楽曲では《昔々・・・、一幕のバレエ Fue una vez..., Ballet en un acto》(1942)、《バレーのためのアルゼンチン組曲 Suite Argentina》(1941?)、管弦楽と合唱・バリトンソロのためのカンタータ《別れ Despedida》(1969) などがある。協奏曲では《ピアノと管弦楽のためのサンタフェのロマンス Romance de Santa Fe para piano y orquesta》(1952-1953) がある。器楽曲には《クラリネットとピアノのためのソナタ Sonata para clarinete y piano》(1971)、《フルートとピアノのためのイントロダクションとアレグロ Introducción y allegro para flauta y piano》(1972-3)、《トロンボーンまたはホルンとピアノのためのソナタSonata para trombón o trompa y piano》(1973)、《ギターのためのソナタ第1番、2番、3番 Sonata Nº 1, 2, 3 para guitarra》(1967, 1969, 1973) などがある。彼の作品群の最多を占めるのは150曲以上ある歌曲や合唱曲で、その美しい旋律の数々の歌曲によりグアスタビーノは「アルゼンチンのシューベルト」とか「パンパのシューベルト」とも呼ばれている。代表作の《鳩のあやまち Se equivocó la paloma》(1941) や《バラと柳 La rosa y el sauce》(1942)は、テレサ・ベルガンサ、ホセ・カレーラス、ホセ・クーラといった有名歌手に歌われている。

 グアスタビーノは「私にとっての楽器はピアノだ。頭で音楽を考える時、ピアノの音で考えている」と自ら言っている。彼のピアノ曲は(ピアノ曲に限らないが)、20世紀後半になってもこんな作品を?と思うくらいの分かりやすい和声で出来ている。とはいえその和声の使い方はプロの作曲家でしか出来ないしっかりしたものである。その書法を用いて、アルゼンチンの土の匂い、空の色を描いた様な彼の曲がもっともっと日本でも知られることを切に願わずにはいられない。アルゼンチンの作曲家で誰が一番好き?と尋ねられたら、私は迷うことなく「グアスタビーノ!」と答えます。

 

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