Ernesto Lecuonaについて

 エルネスト・レクオーナ Ernesto Lecuona は1895年8月6日、 ハバナ郊外のグアナバコア Guanabacoa に生まれた。(彼の正式な洗礼名はErnesto Sixto de la Asunción Lecuona Casadoで、洗礼を受けたのが翌1896年5月25日のため、彼の出生年を1896年と誤っている資料が多い。)彼の父Ernesto Lecuona Ramosはスペイン領カナリア諸島のサンタクルス・デ・テネリフェ生まれで、1860年にキューバに移民として来て新聞記者を勤め、エルネスト・レクオーナが生まれた頃には新聞社の社主をしていたと。五人兄弟の末っ子として生まれたエルネスト・レクオーナは、幼い頃より姉エルネスティーナ Ernestina よりピアノを習った(姉エルネスティーナ・レクオーナも後年ピアニスト・作曲家として活躍した)。エルネスト・レクオーナは正に神童で、5歳の時には地元の雑誌が「エルネスト坊やは、彼の兄がよくギターで弾く曲の和音をピアノで間違いなく弾いた」と写真入りでこの天才少年を紹介している。

 レクオーナの父は健康にすぐれず、郷里のカナリア諸島に戻って静養することにしたが、カナリア諸島に着いて僅か8日後の1902年5月2日に亡くなってしまった。1904年よりレクオーナはハバナのCarlos Alfredo Peyrellade音楽院に入学し、ホアキン・ニン・カステジャーノスなどに師事した。レクオーナの家庭は貧しくはなかったが、父を失った彼は12歳の頃より映画館でのピアノ弾きを始め、その頃作曲した行進曲《キューバとアメリカ Cuba y America》は、レクオーナの作品で初出版された。その後コンサートを開いたり、歌手のピアノ伴奏者としてキューバ国内をツアーしたりすることで徐々に彼はピアニストとして有名になっていった。またハバナ音楽院でユベール・デ・ブランク Hubert de Blanck (1856-1932) に師事。師に薦められて1912年に行ったピアノリサイタルではシューマン、ショパン、リストに加えて、自作の《6つのキューバ舞曲集 Seis danzas cubanas》(これは後年に《19世紀のキューバ舞曲集 19th-century cuban dances》および《アフロ=キューバ舞曲集 Danzas afro-cubanas》として纏められたピアノ曲集より〈最初のひたいの皺 La primera en la Frente〉、〈ムラータ La mulata〉、〈アラベスク Arabesque〉、〈彼女と私 Ella y yo〉、〈ママのタンギート El tanguito de mama〉、〈ラ・コンパルサ La Comparsa〉の6曲)が演奏された。

 1913年にハバナ音楽院を金メダルを得て首席で卒業。卒業演奏会ではシューマンの《ピアノ協奏曲イ短調》を弾いたとのこと。翌1914年のキューバピアノコンクールでは5位入賞。彼のリサイタルはハバナの国立劇場やアテネオ劇場で開かれ、キューバを代表するピアニストとなっていた。1916年にレクオーナは奨学金を得て米国を初訪問し、ニューヨークで演奏会を催した。

 レクオーナはピアノ曲や歌曲の作曲に加え、オペレッタ、レヴュー(スペイン語ではレビスタ Revista、=音楽を基盤に、歌と踊りを主とし、寸劇などから構成された軽快なテンポの音楽劇)、サルスエラ(歌と芝居と舞踊からなるスペインの伝統的な舞台芸術)、サイネーテ(一幕物風俗喜劇)といった劇場作品の作曲にも力を入れ、1919年初演のレヴュー《ピニャータの日曜日 Domingo de piñata》を皮切りとして、1919年以降はキューバの作家・詩人のグスタボ・サンチェス・ガララーガ Gustavo Sánchez Galárraga (1893-1934) の作った台本で次々とサルスエラを発表した。

 1922年にはハバナの「オルケスタ・シンフォニカ」の創立に作曲家のゴンサロ・ロイグ Gonzalo Roig と共に関わり、同年10月に催された創立演奏会では、サンサーンスのピアノ協奏曲第2番のソリストを自ら務めた。1923年には米国を演奏旅行し、ニューヨークのキャピトル劇場での公演は成功を収めた。1924年から1925年にかけてはスペインを訪れ、マドリードのアポロ劇場で行ったコンサートではリストやラフマニノフのピアノ曲に加え自作を演奏して、これまた大成功を収めた。また新作のレヴュー《起きて歩け! ¡Levántate y anda!》(1924?) と《ラジオマニア Radiomanía》(1925?) をマドリードで初演した。1928年にはパリを訪れ演奏会を開いた。この時レクオーナの演奏を聴いたラヴェルは「これはピアノ演奏以上のものだ!」と絶賛したとのことである。また丁度パリに滞在していたガーシュインからは《ラプソディー・イン・ブルー》のスコアを譲り受け、キューバに戻ったレクオーナは1928年10月28日、ゴンサロ・ロイグの指揮、レクオーナのピアノで《ラプソディー・イン・ブルー》のキューバ初演を行った。

 1930年、レクオーナはグスタボ・サンチェス・ガララーガの台本によるサルスエラ《マリア・ラ・オ María La O》を完成し、同年にハバナで初演された。この作品はレクオーナのサルスエラの最高傑作として有名となる。

 1932年、レクオーナは再びスペイン訪問をした。この時アルマンド・オレフィチェ Armando Oréfiche が指揮する「エルネスト・レクオーナ・キューバ・オーケストラ Orquesta Cubana de Ernesto Lecuona」という楽団を引き連れていった。レクオーナ自身はスペインで肺炎を患ってしまったこともあり間もなくキューバに帰国したが、楽団は「レクオーナ・キューバン・ボーイズ Lecuona Cuban Boys」と名称を変えてスペインに残り演奏会を続け、その後パリ、ロンドン、エジプトと演奏旅行を続けたとのこと。(その後もーレクオーナの死後もー「レクオーナ・キューバン・ボーイズ」は1975年に解散するまで世界中で活躍した。)

 1934年~1935年はメキシコに滞在し、自作のサルスエラの上演に努めた。また1935年、1937年、1940年とアルゼンチンにそれぞれ数カ月~約一年ずつ滞在し、サルスエラ上演やラジオ出演などで活躍した。(1937年にはピアノと管弦楽のための《アルゼンチン狂詩曲 Rapsodia argentina》を作った。)1941年から1942年にかけてはチリ、ブラジル、ベネズエラ、コロンビア、その他中米各国を演奏旅行した。1943年には在米国ワシントン・キューバ大使館の文化担当官として赴任。米国では、ニューヨークのカーネギーホールにデビューし、ピアノ協奏曲《黒人狂詩曲 Rapsodia Negra》をCarmelia Delfinのピアノ、作曲者レクオーナの指揮で演奏し大成功を収めた。またこの頃に20th Century Fox製作の映画《コスタリカのカーニバル Carnival in Costa Rica》(1947年上演)の音楽の製作を行った。

 1946年にはレクオーナはキューバ作家同盟の会長に就任、約400名の会員の代表として著作権の保護活動などに尽力した。レクオーナは演奏活動で世界中を飛び回っていたが、キューバに戻った時は、ハバナから100キロ程離れた所に建てた「ラ・コンパルサ」と名付けた農場の別荘で時を過ごすようにし、国内外の友人をここに招いては食べて歌って、トランプをして楽しんだとのことである。1953年には、キューバのテレビ局Canal 2の番組「金曜のガラ Viernes de gala」に毎週出演し、ピアノを弾き、有名歌手を招いてはピアノ伴奏をした。

 1959年1月、フィデル・カストロらによる革命でキューバは社会主義共和国となった。当時米国に滞在していたレクオーナは同年1月(または5月?)にキューバに帰国し、ハバナでコンサートを開いている。革命後もキューバにおけるレクオーナの名声は変わらず、革命政府が発行した郵便切手には《ラ・コンパルサ》の楽譜をバックにレクオーナの顔写真を載せたものがある。しかし、1960年1月6日にレクオーナはキューバを出て米国に移ってから生涯故国に戻ることはなかった。米国ではレクオーナはフロリダ州タンパに居を構えた。彼の甥が書いた本『Ernesto Lecuona: the Genius and his Music』によると、晩年のレクオーナはうつ状態で「あまり幸せそうではなかった」とのことである。多くの友人がレクオーナを訪ねたが、彼にピアノを弾いてくれるよう頼んでも「後で、また後で」と答えるのみで、トランプをして一日中過ごしていたとのことである。

 1963年、ヘビースモーカーだったレクオーナは持病の肺気腫が増悪。医師の転地療養の勧めもあって、彼は父が生まれ亡くなったカナリア諸島を経てスペインを訪れた。スペインのマラガ市長はレクオーナの名曲《マラゲーニャ》を讃えて、彼のために海岸沿いの邸宅を提供した。しかし間もなくレクオーナはスペインを発って再びカナリア諸島に戻り、サンタクルス・デ・テネリフェのHotel Menceyに宿泊。そこでレクオーナは肺炎を併発し、1963年11月29日、68歳で永眠した。レクオーナの遺体は遺族の意向でニューヨークに運ばれ、12月13日、ニューヨーク州ロングアイランドのWestchester墓地に埋葬された。

 レクオーナが何故、晩年キューバに戻らなかったのか?、亡命だったのか否か?。また彼は自分の死後、遺体をキューバに埋葬することを望んでいたのか否か?は今も謎である。レクオーナの死後、いくつかの米国のメディアや、米国に亡命したキューバ人達は、レクオーナは「キューバから共産主義とカストロがいなくなるまで遺骨をキューバに戻さないでくれ」と遺言したと吹聴した(そういった内容の遺書のコピーを載せている文献もある)。その一方で、レクオーナは亡くなる時に医師を含め4人に看取られたが、その内の一人でレクオーナの秘書であったArmando de la Torreは、レクオーナは「キューバに埋葬してほしい」と言っていたと述べている。いずれにせよ、レクオーナは政治の事にはあまり関心のない人間であったらしく、ただ彼は、好きな音楽をしたかっただけなのかと思う。

 レクオーナは多作家で、生涯に約千曲くらい作曲したとされている。彼自身、自分で作った曲のこと全部は覚えいなかったらしい。まず有名なのが歌曲で、計406曲の歌曲を作ったとされる。《青い夜 Noche azul》(1925?)、《シボネイ Siboney》(1927)、《貴方のバラを下さい Dame de tus rosas》(1928)、《いつも私の心の中に Siempre en mi corazón》(1942?) などが当時はポピュラーソングとしてヒットした。ピアノ曲に後から歌詞が付けられた作品も多く、ピアノ曲《アンダルシア Andalucía (Andaluza)》は《そよ風と私 The breeze and I》という題名で英語の歌詞が付き有名となった。サルスエラなどの劇場作品も彼の重要なジャンルで計53本を作曲。《コーヒー農園 El cafetal》(1928)、《マリア・ラ・オ》(1929-1930)、《Rosa "La China"》(1932) などが代表作。彼は唯一のオペラ《椰子の帽子 El sombrero de yarey》を何年もかけて作曲したが、これは楽譜が一部しか残されておらず、未だ全曲上演はされていない。レクオーナはまた11本の映画音楽を作曲していて、中でも前述の歌曲《いつも私の心の中に Siempre en mi corazón》を英訳した歌を挿入した米国映画《Always in My Heart》(1942) はアカデミー賞歌曲賞にノミネートされた。

 レクオーナのピアノ曲は176曲にのぼるとされている。レクオーナはポピュラーソングの分野であまりにも有名だったために、逆にその一方で素敵なピアノ独奏曲が多数あることは最近まで忘れられていた。多くがオクターブだらけの技巧的な作品であるため、アマチュアが弾くには難しすぎることが彼のピアノ曲の普及を妨げているのかも知れない。レクオーナのピアノ曲を俯瞰すると、1920年頃までは技巧的な曲はそれほど表れないが、キューバ音楽、特にアフロ=キューバ音楽を自作に取り入れ始めたのは早く、彼の代表作《ラ・コンパルサ》は1912年、弱冠17歳の時の作品である。1920年代から1935年頃までがレクオーナの作曲のピークで、《アフロ=キューバ舞曲集》、《7つの代表的なキューバ舞曲集 Siete danzas cubanas típicas》、《キューバ舞曲集 Danzas cubanas》などのキューバ風味と超絶技巧が融合した名作が次々と作られている。その他、サロン音楽風の美しいワルツ、スペイン情緒あふれる作品など、いろいろな楽しいピアノ曲を彼は生涯作り続けた。最近になって、レクオーナのピアノ曲をレパートリーに加えるピアニストが増えていて、日本人ピアニストの演奏や録音も見かけるようになったのは嬉しいことです。ただしオクターブが走り回り、時には十度音程まで現れる彼のピアノ作品を、レクオーナ自身が理想としていた速いテンポで上手に弾くのは並大抵のことではない。ピアニストの皆さん、やるからには心して挑んで下さい。

 

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