Clarisse Leiteについて

 クラリッセ・レイチ・ジアス・バチスタ Clarisse Leite Dias Baptista は1917年1月11日にサンパウロで生まれた。姉からピアノを習い 6歳でサンパウロ演劇音楽院に入学している。1930年にはフランス留学の奨学金を貰える所であったが、同年に起きた「1930年革命」と呼ばれるブラジル国内の軍事クーデターの騒ぎの中、留学の話は立ち消えになってしまった。

 1943年10月に作家・詩人・ジャーナリストのセザル・ジアス・バチスタ César Dias Baptista と結婚。3人の子どもをもうけた。子どもたちは母の弾くクラシック音楽を聴いて育ち、またピアノを習った。長男クラウジオ・セザル・ジアス・バチスタ Cláudio César Dias Baptista (1945-) はオーディオエンジニア・作家になり、次男アーナウドゥ・ジアス・バチスタ Arnaldo Dias Baptista (1948-) と三男セルジオ・ジアス・バチスタ Sérgio Dias Baptista (1950-) は1965年にムタンチス Os Mutantes という名のロック・バンド結成し、有名になった。1968年にリリースしたムタンチスのファースト・アルバム『オス・ムタンチス Os Mutantes』の中の《Senhor F》という曲中では、母クラリッセ・レイチがピアノを弾いている

 レイチ自身はピアニストとしてサンパウロやリオデジャネイロで活躍した。1959年にはウィーンでのピアノコンクールの審査員として招かれてオーストリアを訪れたとのこと。彼女は日本音楽への興味が深かったらしく、日本領事館(おそらくサンパウロ日本領事館)との共同で、ブラジルでの日本のクラシック音楽の紹介に努めた。またピアノ指導者としても活躍し、ブラジル国内のいくつもの音楽院で教鞭をとった。1970年代から1980年代にかけてはクラリッセ・レイチ・ピアノコンクールを催している。このコンクールでは日本領事館からの賞があって、日本の作曲家の作品演奏に対しての賞を日系人の演奏者、ブラジル人の演奏者それぞれに授与したとのことである。

 クラリッセ・レイチは2003年5月11日、サンパウロで亡くなった。

 レイチの作品にはバレー音楽、管弦楽曲、ギター曲、歌曲、《ピアノ協奏曲第1番》(1972)、《ピアノ協奏曲第2番》(1975) などがある。《ピアノ協奏曲第1番》は1977年に東京で演奏されたとのブラジルの文献があるが、我が国側の記録が不明である。

 レイチは百曲以上のピアノ曲を作っている。自分の生徒の練習用に作ったと思われる初心者向けの曲から、上級者向けの技巧的な曲まである。全体的に不協和音の多用で、取っ付き易いとは言えないのだが、ブラジルの民族音楽を題材にした曲が多く、中でもブラジル北東部(ノルデスチ)の民族音楽を元に作った数々の作品は不協和音の使い方が絶妙で傑作である。それ以外にもバロック風、ヨーロッパロマン派風、ジャズ風、そして日本音楽を題材にした曲と多様である。

 

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