Adolfo Mejíaについて

 アドルフォ・メヒア・ナバーロ Adolfo Mejía Navarro は1905年2月5日にコロンビア北部のスクレ県サン・ルイス・デ・シンセ San Luis de Sincéに生まれた。

 ギターを弾く父から音楽を習った彼は、11-12歳の時には《初物 Primicias》というピアノ曲を作っている(楽譜は失われてしまっている)。この頃に一家はカリブ海に面した都市、カルタヘナに移住。やがてカルタヘナ大学に進学し哲学と文学を学んだが、ギターやピアノ演奏を得意とし、17歳の頃には "Orquesta de Francisco Lorduy" というジャズ楽団でギターやピアノを弾いていた。

 1930年、25歳のメヒアはローサ・フランコ Rosa Franco と結婚し、4人の子どもをもうけた。同年に彼は米国のニューヨークに移住。アルゼンチン出身の編曲家・楽団指揮者・マンドリン奏者で、当時ニューヨークに在住していたテリグ・トゥッチ Terig Tucci (1897-1973) と知り合い作曲を習った(ちなみにテリグ・トゥッチは、同時期ニューヨークに住んでいた10歳のアストル・ピアソラ少年にも作曲などを教えている)。またニューヨークではメヒアのギター、テリグ・トゥッチのマンドリン、スペイン出身のアントニオ・フランセス Antonio Francés のラウードで「トリオ・アルベニス Trío Albéniz」というグループを結成、パソドブレやクプレなどのスペイン音楽を演奏していた。

 1933年、メヒアはコロンビアに帰国する。首都ボゴタに住んだ彼は、コロンビア交響楽団のライブラリアンとして働いた。また一時はボゴタ国立音楽院で学んだ。これによりメヒアは今までのポピュラー音楽の知識に加え、管弦楽法なども身につけた。1936年にはオーケストラの指揮を行い、1938年には2曲の管弦楽曲《ドン・キホーテの三度目の旅立ちへの前奏曲 Preludio a la tercera salida de Don Quijote》、《小さな組曲 Pequeña suite》を作曲。後者は同年ボゴタで催されたイベロアメリカーノ音楽祭で演奏され、エセキエル・ベルナル作曲賞 el premio nacional de composición Ezequiel Bernal を得た。

 1939年、メヒアは上記の賞により政府より奨学金を得てフランスに留学し、パリ高等音楽院に入学。またナディア・ブーランジェにも作曲を師事した。しかし、翌1940年の第2次世界大戦の勃発によりメヒアはフランス北部のヴィレ=シュル=メールに移り、そこでシャルル・ケクランにも一時師事したが、間もなくブラジル経由でコロンビアに帰国した。

 カルタヘナに戻ったメヒアは、活発に作曲活動を行った。また1941年から1950年までコロンビア国軍・海軍学校軍楽隊の指揮者を務めた。メヒアは1948年にコロンビア海軍歌《コロンビア万歳、私は水兵だ! ¡Viva Colombia, soy marinero!》を作曲、1955年にアルミランテ・パディーヤ海軍勲章を授与された。更にカルタヘナ大学附属カルタヘナ音楽研究所で和声やギターなどを教え、オーケストラを指揮し、一時は所長も務めた。

 1970年には国家音楽賞を受賞。

 1973年7月6日、脳硬塞のためアドルフォ・メヒアは68歳にてカルタヘナで死去した。

 アドルフォ・メヒアの作品は、管弦楽曲では上記の《ドン・キホーテの三度目の旅立ちへの前奏曲》(1938)、《小さな組曲》(1938) の他にも、《水彩画 Acuarela》(1938)、交響詩《アメリカ América》(1946)、ハープと管弦楽のための《スペイン奇想曲 Capricho español》(1944) などがある(一部のフルスコアを見ると、なかなか優れた管弦楽法を用いている)。またピアノ四重奏曲《女性よ、探しなさい Busca mujer》(1945)、《ピアノトリオホ短調》(1961) などの室内楽曲や、ヴァイオリン曲、ギター曲などもある。また《カルタヘナ Cartagena》(1933) という歌やコロンビア海軍歌、カルタヘナ大学校歌《エル・トロペリン El tropelin》を作曲、今でもコロンビアで歌われている。

 アドルフォ・メヒアは小品ながらも20曲以上のピアノ曲を作っており、ピアノは彼にとって親しい楽器だったのだろう。彼のピアノ曲には子どもの頃より耳にしていたコロンビアの民族音楽、20代の頃夢中になったジャズやスペイン音楽、30代で身につけたクラシックの作曲法やフランス留学で学んだ印象主義の技法が全て影響している。そのため歌いたくなるような楽しいメロディーから、複雑な和声まで多様であり、彼の音楽に奥行きを与えているように感じられます。

 

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