Henrique Alves de Mesquitaについて

 エンリキ・アウヴィス・ジ・メスキータ Henrique Alves de Mesquita は1830年3月15日、リオデジャネイロで生まれた。当時のブラジルは奴隷制が存在しており、メスキータの両親も以前は奴隷だったらしい。

 少年時代よりトランペットを習った彼は、17歳の時には演奏会に出演していた記録が残っている。

 1848年にLiceu Musicalに入学し、イタリア出身の指揮者ジョアッキーノ・ジャンニーニ Gioacchino Giannini に作曲を師事した。1850年には自作の《トランペットのための変奏曲 Variações para piston》(楽譜は現存せず)を演奏している。また同年にリオデジャネイロで上演された演劇『神父とジプシー、ローマの異端審問 O padre e a cigana ou a inquisição em Roma』の音楽を作ったと報じられている。1852年にはメスキータが作曲した管弦楽曲《芸術の調和 União artística》が演奏されている。

 1855年にメスキータはリオデジャネイロのテアトロ・リリコのトランペット奏者に就任した。また同年にリオデジャネイロの国立音楽院に入学すると、翌1856年には早くも同院より金メダルを授与される。これにより政府より奨学金を得て、1857年7月にフランスに留学した。国立音楽院からヨーロッパ留学を果たしたのは彼が初めてであった。彼はパリ音楽院で作曲家のフランソワ・エマニュエル・ジョゼフ・バザン François Emmanuel Joseph Bazin に師事した。いくつかの作品の楽譜はパリで出版され、またオペラ《ならず者(罰せられる不貞、誘惑、自惚れ)O Vagabundo (ou a infidelidade, sedução, e vaidade punidas)》(1861-1863) を作曲した。

 1863年2月、メスキータは「公衆道徳および公序良俗に反した」罪にて起訴・有罪とされ、パリの刑務所に3年間服役した。罪状は公式には前記のことしか分かっておらず、後年のブラジルの新聞は、メスキータは未成年のフランス人女性と姦通した咎で服役したと記しているが、真相は不明である。同年10月にオペラ《ならず者》は作曲者不在の中、リオデジャネイロで上演された。

 1866年3月、刑期を終えたメスキータはブラジルに帰国。リオデジャネイロのテアトロ・リリコ、テアトロ・フェニックスなどの劇場での指揮者を務めた。またオペラ・コミック《城の夜 Une nuit au château (Noite no castelo)》(1870)、オペレッタ《裏返しの切り札 Trunfo às avessas》(1871)、マジカ《サタンのあご髭 A pera de Satanás》(1871)、マジカ《アリババと40人の盗賊 Ali-Babá ou os quarenta ladrões》(1872)、マジカ《カール大帝(シャルルマーニュ)の王冠 A coroa de Carlos Magno》(1873)、マジカ《吸血鬼、深夜12時の悪魔 O vampiro ou o demônio da meia noite》(1873) などの劇場作品の音楽を作曲・自ら初演して成功を収めた(マジカ mágica とはかつてポルトガルとブラジルで流行した、音楽を伴った演劇の一ジャンルで、フランス発祥の「夢幻劇(フェリー )」に近い)。

 1872年にブラジル国立音楽院の教授に就任した。また同年にサンペドロ教会のオルガニスタに就任し、1886年まで務めた。

 1880年にはサンタナ劇場の指揮者を務め、1880年代には多数の国内外の劇場作品ーカルロス・ゴメスのオペラからオッフェンバックやスッペのオペレッタまでーの上演で指揮を執った。

 1889年にブラジルは帝政から共和制に移行し、翌1890年にはブラジル国立音楽院は国立音楽学校 Instituto Nacional de Músicaと改称したが、 メスキータは引き続き同学校の教授を務めた。彼が最後に指揮を行ったのは1899年である。

 1906年7月12日、リオデジャネイロで亡くなった。

 メスキータは多作家で、生涯225曲を作ったとする文献がある。彼の作品を述べると、まずオペラ、オペレッタ、マジカ、演劇の付随音楽など劇場作品の音楽が主要作である。上記の劇場作品の中でも、オペレッタ《裏返しの切り札》(1871) の第一幕で歌われる〈黒人達の合唱、バトゥーキの伴奏による大掛かりなジョンゴ Coro de negros. Grande jongo acompanhado de batuque〉はアフロ=ブラジル音楽が舞台上で演じられる先駆けの作品とされている。その他の代表作を挙げると 、オペラ《ならず者(罰せられる不貞、誘惑、自惚れ)》(1861-1863)、オペラ・コミック《城の夜》(1870)、マジカ《サタンのあご髭》(1871)、マジカ《アリババと40人の盗賊》(1872)、マジカ《カール大帝(シャルルマーニュ)の王冠》(1873)、マジカ《吸血鬼、深夜12時の悪魔》(1873)、マジカ《悪魔の運 Loteria do diabo》(1877)、マジカ《シンデレラ、ガラスの靴 A gata borralheira ou Chapin de cristal》(1884) などがある。管弦楽曲では交響的序曲《ブラジルの星 L'étoile du Brésil》(1857) など、器楽曲では《トランペットのための幻想曲 Fantasia para piston》(1854) などを作曲した。宗教曲では5曲の《テ・デウム Te Deum》(1857, 1858, 1868, 1871, 1893) などを作曲している。またモジーニャ、ルンドゥ、ロマンスなどの抒情的な歌曲を十数曲作っている。メスキータはおそらく黒人またはムラート(ヨーロッパ系白人とアフリカ系黒人との混血)であり、当時のブラジルや留学先のフランスでの人種差別を鑑みると、彼の音楽ジャンルはどちらかと言うと軽音楽とは言え(彼の伝記には記されていない)数々の苦労が有ったのではなかろうかと、私個人的には推測しています。

 メスキータはピアノ曲を(自作のオペラなどの劇場作品のピアノ編曲を含めると)100曲近く作っている。ピアノ曲の大部分はポルカ、クァドリーリャ、タンゴ、ワルツなどのサロン用の舞踊音楽である。全てが1曲数分の聴きやすい音楽で、作曲技法云々より彼の天性の旋律やリズムを気軽に楽しむのがいいです。また、タンゴと題された曲やその他のいくつかの曲で聴かれるブラジルらしいシンコペーションのリズムなどは、後年のシキーニャ・ゴンザーガやエルネスト・ナザレらのショーロ作曲家に大きな影響を与えていることは確実で、ブラジル民族主義音楽の根幹を築いた作曲家の一人と呼んでも過言ではない気がします。

 

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