Alberto Nepomucenoについて

 Alberto Nepomuceno(アウベルト・ネポムセノ)は1864年7月6日、ブラジル北東部のセアラ州フォルタレザに生まれた。父Victor Augusto Nepomucenoはヴァイオリニスト兼、地元フォルタレザのカテドラルのオルガン奏者をしていた。一家は1872年にレシフェに移住している。幼少時から父からピアノとヴァイオリンを習った。1880年、父が亡くなったためネポムセノはタイプライターの仕事をして生計を支えながら作曲の勉強もした彼は、1885年にはリオデジャネイロに出て「ベートーベンクラブ」で更にピアノを習った。1887年にいくつかのピアノ曲や管弦楽曲を発表している。

 1888年、ネポムセーノはヨーロッパ留学を果たす。最初はローマのサンタ・チェチーリア音楽院で和声とピアノを勉強。1890年にはベルリンに移り、Heinrich von Herzogenberg(ブラームスの友人)に作曲を師事、1892年には同じベルリンのシュテルン音楽院でピアノと作曲の勉強を続けた。また1892年頃よりネポムセノは何度かノルウェーを訪問。1893年にはオスロにてグリーグの弟子でノルウェー人のValborg Rendtler Bangと結婚、4人の子に恵まれた。1894年にシュテルン音楽院を優秀な成績で卒業。卒業演奏会で彼は自作の管弦楽曲 "Scherzo fur grosses orchester" と"弦楽のための "Suíte antiga" を自らベルリンフィルを指揮して初演している。卒業後も彼は暫しヨーロッパに滞在し、パリではサン・サーンスやヴァンサン・ダンディーとも知り合っている。

 1895年、ブラジルに戻ったネポムセノは主に指揮者として活躍した。またポルトガル語の歌詞による歌曲を作曲して発表した。当時のブラジルのクラシック音楽界では、ブラジル人作曲家の歌曲でさえイタリア語などの外国語で歌われるのが習慣であり、自国語であるポルトガル語による歌曲は保守的な評論家の激しい批判を浴びたとのこと。これに対してネポムセノは「自国の言葉で歌を歌わない国が何処にある!」と主張した。

 1900~1901年には2度目ののヨーロッパ訪問をし、ウイーンではではマーラーに会っている。

 1902年にはリオデジャネイロの国立音楽学校 (Instituto Nacional de Música) の校長にレオポルド・ミゲスの後任として就任するが、僅か一年で辞職。しかし同職に1906年再び就任し、1916年まで校長を務めた。

 1910年,ブラジル政府の使節としてヨーロッパを再訪問。ブリュッセル、ジュネーブ、パリで自作を含むブラジル作曲家の作品演奏会の指揮を行った。またこの訪問中、ドビュッシーに会っている。

 1911年、ネポムセノは代表作のオペレッタ "La cicala" を完成、リオデジャネイロで初演された。更に1913年にはオペラ "Abul" がブエノスアイレスで初演されている(上演時間3時間の大作!)。

 1916年にはシェーンベルグの著書 "Harmonielebre(和声学)" のポルトガル語への翻訳をしている。この "Harmonielebre" の内容をネポムセノは音楽学校で幅広く取り入れようとしたが、他の保守的な教授達の反対に会い、そのために彼は校長を辞職したと言われている。

 1920年9月23日、ネポムセノが作曲中のオペラ "Garatuja" の前奏曲が、ウィーンフィルのブラジル公演でリヒャルト・シュトラウスの指揮により演奏された。しかしこの "Garatuja" は一幕のみ作曲されただけで、同年10月16日、リオデジャネイロにてアルベルト・ネポムセノは56歳で亡くなった。

 ネポムセノは指揮者として活躍していただけあって、多くの管弦楽曲がある。また室内楽曲では弦楽四重奏曲1、2、3番などがある.歌曲は70曲以上作っている。そして彼の代表作となるのが前述の、オペレッタ "La cicala" (1911)、オペラ "Abul" (1899-1905)、オペラ "Garatuja"(未完成)といった劇場作品だが、今では曲中の一部がたまに演奏会で取り上げられる位で、全曲が上演されることはブラジルでも殆どない。
 ネポムセノのピアノ曲は、ベルリン留学中に作ったブラームスの影響が強い「ピアノソナタ」とか、シューマンの影響の強い「アルバムの一葉」などヨーロッパ留学の色が濃く出たものが多い。同時期に映画館のロビーでピアノ弾きをしていた作曲家のナザレ(わずか1歳違い)と比べると、ネポムセノは国立音楽学校の校長を務めたりヨーロッパ公演をしたりと、当時ブラジルでの音楽家としての地位はかなり高かっただろう。しかし、その高い地位に安住してしまったのか、作曲家として自分の個性的な音楽を作る努力を怠ったのではないか、とまで言ったら言い過ぎだろうか。その差が現在では「ブラジルの魂そのもの」として人々に愛されるナザレと、今や殆ど忘れ去られてしまっているネポムセノに現れているように思える。しかし、"Danca de negros (Batuque)"、"Brasileira"、"Galhofeira" といった数こそ少ないがブラジル的な楽しい曲があり、また若きヴィラ=ロボスの作品を出版社に売り込んだりと、後のブラジル作曲家に与えた影響を考えると、やはりネポムセノはブラジル音楽史に欠かせない作曲家でしょう。

 

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