Henrique Oswaldについて

 エンリキ・オズワルド Henrique Oswald(正式な姓名はHenrique José Pedro Maria Carlos Luís Oschwald、ブラジル・ポルトガル語の発音ではエンヒキ・オズヴァウジと書くのが一番近い)は1852年4月14日、リオデジャネイロで生まれた。父はスイス出身、母はイタリア出身の移民であった。翌1853年に一家はサンパウロに移住。父の経営するビール工場の経営は思わしくなかったが、1857年オズワルド家はピアノを購入し、エンリキは母よりピアノを習い始めた。彼は子どもの頃より才能を伸ばし、6〜7歳頃より、当時サンパウロで一番のピアノ教師との評判であったフランス出身のピアニストのガブリエル・ジロードン Gabriel Giraudon に師事した。14歳の時には既にピアノリサイタルに出演している。エンリキは成年までにブラジル国籍かスイス国籍かを選ぶことになっていて、父はエンリキが15歳の時、スイス国籍として登録させた。

 1868年エンリキ・オズワルドは母と共にイタリアに移住。フィレンツェで彼は作曲家・ピアニストのジュゼッペ・ブオナミーチに師事し、ピアノ、和声および作曲の勉強を本格的に行った。またこの頃自分の国籍をブラジル籍に変えたらしい。1878年、フィレンツェを訪問したブラジル皇帝ペドロII世はオズワルドのピアノリサイタルを聴き、ペドロII世は1889年に帝制が打倒されるまで約10年に亘りオズワルドに奨学金を与え続けた。

 1881年、オズワルドはイタリア人歌手のLaudomia Bombernard Gasperiniと結婚。6人の子供をもうけた。1886年にオスワルドは晩年のフランツ・リストに会い、お互いの作品を演奏しあったとのこと。

 1896年、オスワルドは妻を連れてブラジルに一時里帰りし、リオデジャネイロやサンパウロでコンサートを行い成功を収める。その後1897年、1899年、1900年とブラジルを訪れた。1899年にはブラジルに演奏旅行していたサン=サーンスと2台ピアノの共演を行い、サン=サーンス作曲の《2台ピアノのためのスケルツォ、作品87》を演奏した。

 1900年、オズワルドはブラジル大統領カンポス・サーレスから直々にフランスの在ルアーヴル・ブラジル領事館一等書記官に任命された。カンポス・サレス大統領はロンドンやパリに近いルアーヴルに在勤させることがオズワルドの音楽活動に良いだろうと思ったらしい。1901年2月にはパリのサラ・プレイエルでオズワルドは自作の《ピアノトリオ第1番、作品9》、《ピアノ四重奏曲第2番、作品26》、《ピアノ五重奏曲第1番、作品18》の演奏会を自らピアノを弾いて催した。1901年には妻子の住むイタリアの、ジェノヴァの領事館に転勤になった。しかし、領事館での官僚的業務はオズワルドには向いてなかったようだ。

 1902年は彼の生涯で最も輝かしい一年だろう。この年、フランスの新聞社 "Le Figaro" が主催した作曲コンクールにオズワルドは自作のピアノ曲《雪が降る・・・ Il neige!...》を応募した。全世界からの647作の応募作品はサン=サーンスやフォーレらにより審査され、《Il neige!...》は見事一等賞を獲得した。この時オズワルドは "Figaro, qui, Figaro llà, Figaro giù, Figaro su" というペンネームで応募したため、審査員達は《Il neige!...》の作曲者はてっきりフランス人だと思ったらしい。(ラベルか、デュカスか、ドビュッシーかとも思ったらしい。作風はこの三人とは全然違うけどな~。)作曲者がブラジル人だと知って、皆とても驚いたとのこと。《Il neige!...》は11月8日の "Le Figaro" 誌に掲載され、またフランスのデュラン社から出版された。

 1903年、オズワルドは領事館の職を辞し、家族を残してブラジルに戻り、ネポムセノが僅か一年でやめてしまったリオデジャネイロの国立音楽学校 Instituto Nacional de Música の校長に就任した。しかし彼も僅か三年でやめてしまっている。(その後はまたネポムセノが校長に再就任。)

 1906年にはドイツ訪問、1907年と1911年にはイタリア訪問をしているが、その後はリオデジャネイロに家族を呼び寄せ定住している。以降ヨーロッパに行くこともなく、国立音楽学校の教授を晩年まで勤め、若い音楽家を教え、時たまコンサートを開いたりして余生を送ったとのこと。リオデジャネイロ郊外にあるオズワルドの自宅にはヴィラ=ロボスなどのブラジルの音楽家はもとより、レスピーギ、ミヨー、パブロ・カザルス、アルトゥール・ルービンシュタインといった錚々たる音楽家が訪れている。ルービンシュタインはオズワルドのことを「もし言っても差し支えないなら、エンリキ・オズワルド氏はブラジルのガブリエル・フォーレである」と語ったとのこと。

 1920年にはベルギー政府よりアルベール1世勲章 Médaille du Roi Albert が授与された。1931年5月頃、在ブラジル・フランス大使よりオズワルドに、レジョン・ドヌール勲5等 Chevalier de la Légion d'Honneur が送られるとの決定が伝えられた。また5月30日にはリオデジャネイロ市民劇場で彼の79歳記念コンサートがフランシスコ・ブラガの指揮で行われた。しかしその9日後、レジョン・ドヌール勲章が届く前にオズワルドは1931年6月9日、リオデジャネイロで79歳の生涯を閉じた。

 オズワルドは多くのジャンルに作品を残している。オペラは3作あり《黄金の十字架 La croce d'oro》(1872?)、《つけボクロ Il neo》(1900)、《妖精 Le fate》(1902-3) がある。宗教曲では《混声四部と管弦楽・オルガンのためのミサ曲》などがある。管弦楽曲は《交響曲、作品43》(1910) などがある。協奏曲では《ピアノ協奏曲、作品10》、《ヴァイオリン協奏曲》などがある。室内楽曲は彼の作品の中心を成していて、《弦楽四重奏曲第1番、作品16》、《弦楽四重奏曲第2番、作品17》、《弦楽四重奏曲第3番、作品39》(1908)、《弦楽四重奏曲第4番、作品46》(1921)、《ピアノトリオ第1番、作品9》(1884)、《ピアノトリオ第2番、作品28》(1897)、《ピアノトリオ第3番、作品45》(1916)、《ピアノ四重奏曲第1番、作品5》(1888)、《ピアノ四重奏曲第2番、作品26》(1898)、《ピアノ五重奏曲、作品18》(1894)、《弦楽八重奏曲》(1900) などがある。《ヴァイオリンソナタ、作品36》(1908) や《チェロソナタ、作品21》などの器楽曲、歌曲なども多数あるが、ブラジルでも今はあまり知られていない。

 オズワルドは彼自身ピアニストであり、多数のピアノ曲を作曲している。オズワルドのピアノ曲にブラジル風味は殆どない。彼の長いヨーロッパ生活を考えれば当然のことかもしれない。同じくヨーロッパ音楽の影響を強く受けた曲を多く作ったネポムセノと比べると、よりロマンティックな作風だが、独特の重い雰囲気が彼のピアノ曲には感じられる。

 

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