Astor Piazzollaについて

 ピアソラの生涯について書かれた文章は、日本国内で出ている本や解説書でも沢山あり、今さらここで彼の生涯を紹介しても二番煎じになりそうなので詳しくは述べません。ここでは彼の、ピアノ曲との関わりに重点を置いて紹介いたします(と言いながら、大好きなピアソラだけあって、ついつい長くなってしまいました)。

 Astor Pantaleón Piazzolla(アストル・パンタレオン・ピアソラ)は1921年3月11日、アルゼンチンのマル・デル・プラタにて生まれた。彼の父ビセンテは、ピアソラが生まれた頃は自転車屋をしていたが、大の音楽好きでギターやアコーディオンが弾けたらしい。

 1925年、ピアソラ一家はアメリカのニューヨークに移住する。ニューヨークでのピアソラはかなりの悪ガキだったようで、いくつもの小学校から放校されていたとのこと。8歳の時、父にバンドネオンを買ってもらい、最初は興味を示さなかっったが、それでも10歳の頃には1日何時間も練習をしていたらしい。1930年、ピアソラ一家は一旦アルゼンチンに帰国したが、戻っても父には碌な仕事はなく、同年には一家はまたニューヨークへ移った。1933年にはBela Wildaというハンガリー移民のピアニストの演奏をピアソラは聴いて感動し、自分から希望してレッスンを受けた。Bela Wildaからはクラシックの和声や作曲の基礎を教わった。

 1936年12月、ピアソラ一家はアルゼンチンに帰国。バルダーロ楽団のタンゴに魅せられたピアソラは一気にタンゴに夢中になり、1939年に首都ブエノスアイレスに一人上京。同年には、有名なトロイロ楽団のバンドネオン奏者に採用された。しかしその一方で、ピアソラはクラシック作曲家への憧れを持っていた。1941年、ブエノスアイレスに来ていた有名なピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインの宿泊先を訪れ自作の協奏曲を見てもらった。そこでルービンシュタインに「勉強が必要」と言われ、ヒナステラを紹介してもらい、ピアソラはヒナステラの最初の弟子となった。ピアソラはバンドネオン奏者として忙しく活動しながら、約五年間に亘りヒナステラから作曲法・管弦楽法・和声などを学んだ。

 トロイロ楽団でのピアソラの個性的な作曲・編曲活動は他の楽団員やトロイロとの軋轢を増し、ついに1944年にトロイロはピアソラを解雇。同年、タンゴ歌手フィオレンティーノの伴奏楽団の音楽監督に抜擢されたが、ピアソラの大胆な編曲とは合わず、結局1946年にフィオレンティーノとも別れた。1946年から1949年まではAstor Piazzolla y su Orchesta tipicaを結成した。以降もPara lucirse(輝くばかり)(1950)、Preparense(用意はいいか)(1951)、Triunfal(勝利)(1952)、Lo que vendra(来るべきもの)(1954)などのタンゴ曲を作曲し有名になっていく。アルゼンチンの各タンゴ楽団の特徴に合わせて、各曲ともそれぞれ編曲を変えたバージョンを作っているのは見事。またクラシック系のピアノ曲や室内楽曲なども作曲、特に1951年に発表された交響的楽章「ブエノスアイレス」はセヴィツキー・コンクールで一位を獲得。ついに1954年8月にはフランス政府からの奨学金を得て、パリに留学した。

 パリでピアソラは、有名な作曲家のナディア・ブーランジェ女史に個人的に師事し、厳しいレッスンを受けた。タンゴを愛しながらも楽団とはうまくやっていけず、一方クラシック作曲家になる夢をも持ちつつ、この頃タンゴとクラシックの間で揺れ動いていたピアソラにとってナディア・ブーランジェとの出会いは、その後のピアソラの運命にとって重要である。『アストル・ピアソラ 闘うタンゴ』の本の一部を引用させて頂く。

 初めてブーランジェの家を訪れた際に、それまでに書いたすべてのクラシック作品の譜面を携えていったピアソラは、バンドネオン奏者としての、タンゴ音楽家としての素性は明かさなかった。課題を黙々とこなし、真面目に作曲や理論の勉強を続ける日々が続いた。
 だがある日、彼女はピアソラに対して、あなたの作品はよく書けてはいるけれど、心がこもってないと告げる。アストル・ピアソラは一体どこにいるの? あなたは自分の国では何を弾いていたの? まさかピアノではないでしょう。思い悩んだ揚げ句、ピアソラはそれまでの経歴を語った。それではあなたの音楽を、あなたのタンゴを聴かせて頂戴と女史から促されたピアソラは、渋々ピアノに向かい「勝利」を弾いた。聴き終わった女史は目を輝かせ、ピアソラにこう言った。
「素晴しいわ。これこそ本物のピアソラの音楽ね。あなたは決してそれを捨ててはいけないのよ」

       ( 斎藤充正『アストル・ピアソラ 闘うタンゴ』、青土社、1998年)

 私個人的にも、以上のエピソードはピアソラの生涯の中でも最も大好きな話で、私のHPで紹介した他の数々の中南米の作曲家ーJosé Rolón、Alejandro García Caturla、Adolfo Mejía、Gerardo Guevara、Mozart Camargo Guarnieri、Claudio Santoroーをも育てたナディア・ブーランジェの偉大さをしみじみと感じさせてくれます。

 1955年7月、パリからアルゼンチンに帰国したピアソラはブエノスアイレス八重奏団、およびアストルピアソラ弦楽オーケストラを結成。1958年に両者とも解散させてからは、同年ニューヨークに移住し、いくつものミュージシャンと共演した。1959年10月、プエルト・リコでの公演中に父ビセンテが亡くなったのを知ったピアソラは、翌11月のある日、ニューヨークの自宅で一人部屋にこもりピアノに向かった。こうして作られた、父に捧げたレクイエムである曲が「アディオス・ノニーノ」である。

 1960年、再びアルゼンチンに帰国したピアソラはピアソラ五重奏団を結成。1960年台には彼の代表作が次々と作られた。1971年には、五重奏団に弦楽器を増やしドラムスを加えたConjunto 9(9重奏団)を結成している。

 1974年にはイタリアへ移住。イタリアのミュージシャンとグループを組み、アルバム「リベルタンゴ」を録音。1975年にはConjunto Electronico(電子奏団)を結成しアルゼンチンに帰国。1978年にはピアソラ新五重奏団を結成。以後も、ともかく一ケ所に留まることがなく、世界中を移動しながら演奏を続けた。1987年8月、ニューヨーク滞在中には彼の白鳥の歌とも言える "Trois préludes pour piano(ピアノのための3つの前奏曲)" が作曲された。

 1990年8月4日、パリ滞在中のピアソラは脳出血で倒れる。アルゼンチンのメネム大統領はアルゼンチン航空の特別機をパリに差し向け、8月14日ピアソラはブエノスアイレスに到着。その後、闘病生活の末に1992年7月4日死去した。享年71歳。

 ピアソラの作った数々のタンゴの作品については有名であり、ここで述べるまでもありません。「ピアノ用」に出版されたピアソラの楽譜は国内外でも沢山あるのですが、ブエノスアイレスの四季やリベルタンゴなど彼の代表作は、ピアソラ自身は自分の五重奏団(バンドネオン、ヴァイオリン、ピアノ、コントラバス、エレキギター)とか、(リベルタンゴは)11人編成のバンドのために書いたのであって、現在出版されているピアノ譜は他人の編曲によるものが結構混じっています。「ピアソラ自身がピアノの為に書いた曲」はAstor Piazzollaのピアノ曲リストの項で紹介した作品のみでそれ程多くはなく、彼がパリに留学する前のいわば初期の作品が大部分である。これら初期のピアノ曲と、ピアソラのタンゴの数々の名作との間に音楽的な繋がりは殆ど感じられず、私個人的には「これって本当にピアソラの作品?」と訝ってしまいます。初期のピアノ曲はフランス印象主義や、当時の彼の師であったヒナステラの影響が強く、ブーランジェが言う通り「よく書けてはいるけれど、心がこもってない」と言うか、後世に残るような作曲家渾身の作品とは呼び難い。やはりピアソラの本領はあのむせび泣くようなバンドネオンで歌われるタンゴにあるのだ。そうは言え、晩年のピアノ曲 "Trois préludes pour piano" は素晴しく、また知られざる名曲 "Tardecita pampeana(大草原の夕暮れ)" はこの上もなく美しい。ピアソラの才能はピアノ曲のあちこちにまで散らばっており、中南米のピアノ曲を語るに当たって、結局ピアソラは外せないです。

 

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