Claudio Santoroについて

 クラウジオ・フランコ・ジ・サ・サントロ Claudio Franco de Sá Santoro(サントロをサントーロと記す資料も多い)は1919年11月23日にブラジル北西部、アマゾナス州の州都マナウスに生まれた。幼い時から母にピアノを習い、9歳の頃に叔父にヴァイオリンを買ってもらいレッスンを始め、11歳の時には既にリサイタルを開いている。13歳の時にはリオデジャネイロに出て本格的にヴァイオリンを学び始めるが、寄宿先の家族とうまくいかず間もなくマナウスに戻った。しかし翌年にはアマゾナス州政府からの奨学金を受け、1935年に再びリオデジャネイロに出た。リオデジャネイロ連邦音楽院に入学したサントロは、1936年にはメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲のソリストも務めたりと頭角を現し、1937年には同音楽院を卒業。その後も音楽院のアシスタントを行いながら作曲も勉強し、1938年作曲の弦楽四重奏曲やヴァイオリン曲などは作曲家のフランシスコ・ブラガに褒められたとのことである。

 この頃、ドイツからブラジルに移住してきた作曲家ハンス=ヨアヒム・ケルロイター Hans Joachim Koellreutter (1915-2005) が、ブラジル音楽の表現においても無調主義と十二音技法の使用を唱えていた。サントーロは1940年よりケルロイターに作曲を師事し大きな影響を受け、同年作曲でサントーロの作品で初めて出版された《ヴァイオリンソナタ第1番》は十二音技法による前衛的な曲である。しかし、1940年代後半より彼は十二音技法よりも徐々に民族主義的な作風になっていく。

 1941年、サントロはヴァイオリニストのMaria Carlota Horta Bragaと結婚(二人の間には3人の子どもができた)。ブラジル交響楽団や国立ラジオ交響楽団、カジノのヴァイオリン弾きをして生計を立てたが経済的には苦しかったとのこと。その中でも彼は作曲を続け、管弦楽のための《製鉄所の印象 Impressões de uma usina de aço》(1942-3) でブラジル交響楽団より賞を得たのを始めに、《弦楽四重奏曲第1番》(1943) で1944年にワシントン室内楽協会とRCA Victorより賞を、歌曲《疲れ果てた女の子 A menina exausta》(1944)でInterventor Dornellesコンクールで歌曲賞を得た。1946年にはグッゲンハイム財団より奨学金を得て米国に留学できる予定だったのだが、米国政府はサントロの思想が社会主義的として査証を発給しなかった。しかし翌1947年にサントロはフランス政府の奨学金を得て、妻を伴いパリに留学。ナディア・ブーランジェやオリヴィエ・メシアンに作曲を師事した。1948年5月にはチェコスロバキアのプラハで開かれた第2回作曲家・音楽評論家国際会議に出席し、同会議でのマニフェスト「作曲家はもっと自国の文化と協調すべきである」に賛同し、「ブラジルの作曲家は十二音技法などの前衛音楽を止めて、民族音楽の研究に基づいた国民音楽の創作をすべき」と記している。1948年にはリリー・ブーランジェ賞を受賞しブラジルに帰国。この年作曲の《交響曲第3番》は1949年のバークシャー音楽センター作曲コンクールで一等を受賞している。1953年には弦楽オーケストラのための《愛と平和の歌 Canto de Amor e Paz》(1950) でウィーン国際平和賞を、1954年には《藁の中の針 Agulha no palheiro》(1953) などの映画音楽の作曲に対してリオデジャネイロ映画批評家協会賞を受賞している。

 1953年にサントロはソビエトを訪問。彼は西側の音楽家では数少ない、共産圏での活動を活発に行った人で、1956年にはモスクワで自作の《交響曲第4番》(1954) を指揮し、ハチャトリアンの絶賛を浴びた。翌1957年にはソビエト作曲家同盟の招きで再びモスクワを訪れしばらく滞在し、《交響曲第5番》(1955) を指揮した。後に彼が指揮したオーケストラはモスクワ国立交響楽団、レニングラード・フィルハーモニー、プラハ・ラジオ交響楽団、ブカレスト・フィルハーモニー、ソフィア・フィルハーモニー、ワルシャワ・フィルハーモニー、ライプツィッヒ・ラジオ交響楽団などが挙げられる。

 1960年、ブラジルの首都がブラジリアに遷都されたのを記念してブラジル文化教育省により作曲コンクールが催され、サントロの《交響曲第7番》(1960) が一等を受賞。この頃から彼は再び12音技法など前衛音楽に興味を示すようになり、《交響曲第8番》(1963) は12音技法による作品となる。また1960年からはドイツ民主共和国(旧東ドイツ)にしばしば滞在し、エレクトロ・アコースティック音楽の研究をおこない、録音テープによる《Aleatorios》(1966-7) などの作品を作った。

 1962年にはブラジリア大学音楽学部長および教授に就任。1963年にはバレリーナのGisèle Loise Portinho Serzedello Corrêaと再婚(二人の間にはまた3人の子どもができた)。しかし1965年にはブラジリア大学教授会の罷免要求により解任され、1966年からはドイツに移住した。1971年にはマンハイム国立音楽学校の教授に就任した。

 1978年に12年振りにブラジルに帰国し、ブラジリア大学音楽学部長に再就任。

 1989年3月27日、サントロはブラジリアの国立劇場でサンサーンスの《ピアノ協奏曲第2番》のリハーサルでの指揮中に脳卒中で倒れ、同日永眠した。同年9月にブラジリアの国立劇場は「クラウジオ・サントロ国立劇場」と命名された。現在、ブラジリア大学音楽学部では「クラウジオ・サントロ作曲コンクール」が催されている。

 サントロの作品は一部の現代作曲家好きにしか知られておらず、ピアノ曲以外は私もごく一部の曲しか聴いたことがありません。彼は自分の作風を、1)1939-1947年の無調やケルロイターに影響を受けた12音技法の時期、2)1947-1950年の過渡期、3)1951-1960年の民族主義的な時期、4)1960年以降のセリー音楽などの時期、の4つに分類している。彼は多作家で、14の交響曲(第4番「平和」と第5番は民族主義的な作品で比較的聴き易く、CDも出ている)、3つのピアノ協奏曲、2つのヴァイオリン協奏曲、7つの弦楽四重奏曲、5つのヴァイオリンソナタ、4つのチェロソナタ、歌曲、合唱曲、オラトリオ・ミサ曲・レクイエムなどの宗教曲、4幕のオペラ《魂 Alma》(1985)、バレー音楽、映画音楽など、作品の数は約400~500になるらしい。

 約100曲に及ぶサントロのピアノ曲も上記の作風の変遷通り変化に富んでいる。第1期、第4期の作品は正直難解で、私個人的にはやはり第3期あたりの民族主義的な時期が好きです。特に《フレーヴォ Frevo》や《パウリスターナス Paulistanas》はブラジルの力強さと、甘い風の両方を表現している見事なピアノ曲だと思います。この2作だけでも、中南米ピアノ愛好者にもっと知られていいように思います。

 

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