Manuel Saumellについて

 マヌエル・サウメル・ロブレド Manuel Saumell Robredo は1817年にハバナに生まれた(生まれた月日は文献により4月19日だったり7月17日だったりではっきりしない)。サウメルの一家は貧しく、子ども時代の音楽の勉強については不明だが、殆ど独学であったようである。15歳の頃からピアノをジャン=フレデリック・エーデルマン Jean-Frédéric (Juan Federico) Edelmann (1797-1848)に師事した(フランス生まれのエーデルマンは1832年にキューバに渡り、ハバナで楽譜出版社を創業した。ちなみに同姓同名の父親はフランスのストラスブール出身の作曲家である)。成人した頃よりサウメルはMaurice Pykeというイタリアから来玖したオペラ指揮者に和声や作曲を師事した。

 成人してからはピアニストとして活動し、サンタ・セシリア楽友協会 Filarmónica Santa Cecilia の会長になり、またハバナ芸術協会 Liceo Artístico de la Habana の設立者の一人などとして活躍した。

 1854年にはキューバに滞在していたアメリカの作曲家・ピアニストのルイス・モロー・ゴットシャルクとも知り合い、その後《ルイジアナ Luisiana》《否定 Dice que no》《ゴットシャルクの思い出 Recuerdos de Gottschalk》の3曲をゴットシャルクのために作っている。

 1870年8月14日、ハバナで亡くなった。

 サウメルの作品には、《チェロ協奏曲》(チェロとピアノ譜のみしか現存しないらしい)、声楽と管弦楽のための《アベ・マリア Ave María》、ソプラノとオルガンのための《祈り Plegaria》、ヴァイオリンとピアノのための《牧歌 Idilio》、詩のついたピアノ曲《メロペヤ Melopea》、ヴェルディのオペラなどによるパラフレーズがある。また、1839年にはキューバ初のオペラを作ろうと計画し、キューバの作家ホセ・アントニオ・エチェバリア José Antonio Echevarría 作の小説『アントネッリ Antonelli』(スペイン統治時代1590年頃のハバナにモロ要塞を築いた軍事技師バッティスタ・アントネッリが主人公)を元に台本を準備し作曲を始めたらしいが、未完に終っている。

 サウメルが作ったピアノのためのコントラダンサは52曲ある。キューバ人らしいピアノ曲をこれだけ書いた作曲家は、キューバでは彼が初めてである。生涯キューバから出なかったこともあり和声的にはロマン派入口くらいで、どの曲も1〜2分少々の小品ばかりだが、ハバネラなどの元になるコントラダンサのリズムにのってキューバ人の日常の喜怒哀楽をさり気なく描きつつ、コントラダンサを踊りの付随音楽からサロンや演奏会で「聴く」ための音楽へ発展させたサウメルこそ、正に「コントラダンサの父」「キューバ民族音楽の父」と呼ばれるに相応しいと思います。

 

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