Fructuoso Viannaについて

 Fructuoso de Lima-Vianna(フルクトゥオーゾ・ジ・リマ=ヴィアナ、ViannaをVianaと綴る資料もあり)は1896年9月6日に、リオデジャネイロの西230キロ位にあるミナス・ジェライス州Itajubáに生まれた。彼の父は趣味でピアノが弾けて、フルトゥオーゾも8歳からピアノの練習を始めている。

 1912年、16歳でリオデジャネイロに出た彼はエンリキ・オスワルドにピアノを師事し、また国立音楽学校に入学した。1919年からはヴィラ=ロボスとも知り合い、ヴィラ=ロボスの室内楽曲の演奏を度々行っている。(1922年11月にサンパウロで催された「現代芸術週間」コンサートでは3夜に亘ってヴィラ=ロボス作品の演奏会が行われたが、"Trio segundo" や "Três danças africanas" でヴィアンナがピアノを担当した。)作曲家としては、1920年に作曲したPrelúdio No. 1, Op. 1はリオデジャネイロ文化協会作曲コンクールで2等賞を得た。またこの頃Antônio Sucupiraというペンネームでポピュラー曲をいくつか作ったらしい。

 1923年よりヴィアナはヨーロッパに留学。パリではBlanche Selvaに師事し、その後ブリュッセルやベルリンでも学んだ。1924年3月31日のベルリンで催されたコンサートのプログラムの中にはヴィアナの"Serenata espanhola"が含まれている。

 1926年にブラジルに帰国してからはピアニストとして各地でリサイタルを行い、また1930年からはサンパウロ演劇音楽院のピアノ科教授に就任している。また1931年3月25日にMaria Julia Brasilと結婚し、2人の子供をもうけた。1938年から1940年までCoral Paulistano(サンパウロ合唱団)の指揮者をカマルゴ・グァルニェリの後任として務めた。

 1941年からはリオデジャネイロに移住。Colegio Bennettのピアノ教授を務めた。

 1974年にはミナス・ジェライス州政府より勲章が授与された。

 1976年4月22日、リオデジャネイロで亡くなった。

 ヴィアナの作品は殆どがピアノ曲か歌曲で、その他は若干の合唱曲や室内楽曲があるだけである。管弦楽曲などは全く残されていない。自作のピアノ曲 "Dansa de negros" をオーケストレーションしようとした跡があるが結局未完に終っている(後年にミニョーネが管弦楽に編曲している)。管弦楽とか劇音楽とかの大掛かりなものに興味がなかったのかはよく分らないが、彼はよく "o máximo com o mínimo(最小で最大を)" と語っていたという。

 彼のピアノ曲はスペイン音楽、フランス音楽、ロシア音楽、そして故国ブラジル音楽の影響を受けた作品と多様である。ヴィアナ自身は「私はアルベニス、ドビュッシー、プーランク、ヴィラ=ロボスの影響を大いに受けた」と語っている。これといった大曲もなく、媚びるような甘い旋律の曲もないのでブラジル国内でも知名度は今一つらしく、録音も少ない。しかし "Dansa de negros" や "Corta-Jaca" はピアニスティックかつブラジル風味満点で、組曲 "Sete miniaturas sobre temas brasileiros" や "Toada"、"Valsa" はブラジルの心に触れるような曲で、当HPの読者には聴いて頂きたいです。

 

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