Gonzalo Vidalについて

 Gonzalo Vidal Pacheco(ゴンサロ・ビダール・パチェコ)は1863年11月23日、コロンビア南部カウカ県の県都ポパヤンに生まれた。祖父のBernabé Vidalはオルガン奏者、父のPedro José Vidalはヴァイオリニストで地元の神学校の音楽の先生をしており、叔父のFrancisco Javier Vidalもギター奏者で作曲家であった。ゴンサロ・ビダールは父よりヴァイオリンやギターを習い、10歳からは神学校で学んだ。

 1876年、13歳の時、一家はアンティオキア県の県都メデジンに引っ越した。ゴンサロ・ビダールはメデジンで当地のピアニストに師事したが、作曲はほぼ独学であったとのこと。

 1889年、María Villegas Álvarezと結婚。Teresa、Jorge、Ana María、Indalecioの4人の子をもうけた。

 父Pedro José Vidalはメデジンのカテドラルの聖歌隊指揮者や、1888年に開校したサンタ・チェチーリア音楽学校の初代校長をしていたが、翌1889年には職を辞してポパヤンへ戻った。ゴンザロ・ビダールは父の後を引き継ぎ、1889年よりカテドラルの聖歌隊指揮者を、1890年から1892年までサンタ・チェチーリア音楽学校の校長を務めた。

 1900年から1901年までは "Revista Musical" という音楽雑誌を主宰して出版した。ビダール自身もこの雑誌でピアノ曲2曲(Dolores、Melodía fúnebre)を発表した。

 1910年には、首都ボゴタで行われたコロンビア独立百年祭にてピアノ曲集 "Ensayo musicales" を演奏。金メダルを得た。

 1914年から1918年まではメデジン楽団の指揮者を務めた。

 1929年、妻のMaría Villegasが死去。この頃より彼は白内障による視力障害が徐々に進み、1940年頃には完全に視力を失ってしまった。

 1941年、首都ボゴタに移り住んだビダールは、1946年9月21日、82歳で亡くなった。

 ゴンサロ・ビダールの作品には、3幕から成るサルスエラ "María" (1903)、管弦楽序曲 "La americana" (1891)、2曲のレクイエム(1898, 1912)、吹奏楽曲、ヴァイオリンのための数曲の小品、多数の歌曲などがある。特に "Himno Antioqueño(アンティオキア賛歌)" はコロンビアでは有名である。

 彼の作品の中心はピアノ曲である。2曲のピアノソナタも作ったが、大部分はサロン風の小品である。構成や和声など、特に目新しいものもないのだが、気取らず耳に優しい彼のピアノ曲は、当時のコロンビアの上流社会では人気があったんだろうな。

 

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