Waldemar de Almeidaのページ

Waldemar de Almeidaについて

 ワウデマール・ジ・アウメイダ Waldemar de Almeida は1904年8月24日にリオグランジ・ド・ノルテ州マカウ Macau で生まれた。一家は彼の生後6ヶ月で州都ナタウに引っ越した。彼は子どもの頃からピアノを習い始めた。9歳の時にナタウに映画館シネマ・ロイヤルが開館すると、そこでドアマンとして働いた。当時の映画は無声映画(サイレント映画)で、映画の場面に合わせた音楽をピアニストが弾いていた。ある日、映画館お抱えのピアニストが上映時間になっても来なかった。そこで映画館の支配人は少年ワウデマールに「映画に合わせてピアノを弾きなさい。できる限り演奏して、休憩時間以外はピアノを止めないように。」と指示した所、ワウデマールは2時間ピアノを弾ききり、それで彼は映画館でピアノを弾くようになったとのことである。10代の時サンパウロに住んだ時期があったが、やがてナタウに戻り、当地でピアノに加えヴァイオリンやチェロも習った。1921年にはナタウの劇場での演奏会でのピアノ伴奏をした記録が残っている。

 1921年10月、リオデジャネイロに移り、国立音楽学校 Instituto Nacional de Música に入学し学ぶも1923年に中退した。1923年末から1924年にかけて父と主にドイツに滞在し、彼はベルリンでピアノや和声学を学んだ。また1924年のバイロイト音楽祭を鑑賞している。帰国後はナタウでリサイタルをする機会もあった。1926年と1927年の二度に亘ってはフランスのパリに渡航し、ペルルミュテールにピアノを師事した。パリではヴィラ=ロボスにも会い、ヴィラ=ロボスの音楽がパリで大人気であることは我々の誇りであると記している。ブラジル帰国後は、1929年にリオグランジ・ド・ノルテ州政府庁舎でソロリサイタルを催すなどピアニストとして活躍し、また1929年に「Curso Waldemar de Almeida」と名付けた自らのピアノ教室を開講した。ピアノ教室の発表会は1930年から1951年まで計102回を数えている。彼の従弟で、かつピアノの弟子であった当時9歳のオリアンネ(オリアノ)・ジ・アウメイダが1931年に父を失うと、オリアンネの後見人となって世話をした。

 1932年、Hylda Rosemary Wicksと結婚。5人の子どもをもうけ、中でも長男のCussy de Almeidaはヴァイオリニストに、二男のWaldemar de Almeida Juniorはチェリストになった。

 1933年にリオグランジ・ド・ノルテ州立音楽学校がナタウに創立され、ワウデマール・ジ・アウメイダは校長に就任。「Curso Waldemar de Almeida」でのピアノレッスンも並行して続け、ピアノ指導者として活発に活動した。

 彼はブラジル統合主義運動の政治家としても活動し、州議会議員の選挙に立候補するも落選したが、1935年には統合主義党のリオグランジ・ド・ノルテ州代表に就任している。

 1949年、弟子のオリアノ・ジ・アウメイダがワルシャワで開かれた第4回ショパン国際ピアノコンクールに出場し、「Distinction」の成績を得た。

 1950年、ワウデマール・ジ・アウメイダはリオグランジ・ド・ノルテ州立音楽学校を辞任し、一家はペルナンブーコ州レシフェへ移住した。この年、州立音楽学校への補助金が大幅に削減されたことが影響しているのでは、と彼の息子達は後に回想を語っているが、転居のはっきりした理由は不明である。レシフェとナタウは約250km離れているが、彼は頻繁にナタウとを行き来して両方の都市でピアノを教え続けた。

 1954年にポーランドの有名なピアニスト、ハリーナ・チェルニー=ステファンスカがレシフェを訪問しリサイタルを催した。彼女はワウデマール・ジ・アウメイダの弟子であるエリアナ・カルダス Elyanna Caldas (1936-2025) の演奏を聴き、翌年に開催される第5回ショパン国際ピアノコンクールに出場するようカルダスに勧めた。更にコンクール主催者からはワウデマール・ジ・アウメイダにオブザーバーとして来場するよう招待状が来た。しかし、カルダスにはポーランドへの渡航費が無く援助も得られなかった。そこでカルダスのためにワウデマール・ジ・アウメイダは自分の所有する土地を売却して費用を捻出し、1955年2月にワウデマール・ジ・アウメイダとカルダスはワルシャワに渡航。カルダスはブラジル人唯一のコンテスタントとして出場したが一次予選で敗退した。

 1961年には、彼の弟子16人の演奏による、全曲ワウデマール・ジ・アウメイダのピアノ曲による演奏会がナタウで催された。

 1962年、リオグランジ・ド・ノルテ連邦大学に音楽学部が設立され、ワウデマール・ジ・アウメイダは初代学部長に就任した。

 1967年、全ての官職を退任。1975年1月に妻と共にサンパウロに移り住んだ。彼は元々肺気腫を患っていたが、同年5月に心筋梗塞を発症し入院の末、5月25日に亡くなった。

 ワウデマール・ジ・アウメイダの作品は殆どがピアノ曲である。数曲の宗教曲と約20曲の歌曲を作曲したが、それらの中で楽譜が現存するのは4曲のみである。

 

Waldemar de Almeidaのピアノ曲リストとその解説

 斜字は出版がなく、かつ手稿譜が現存せず、どんな曲だか不明な作品です。

1920年頃

1921

1922

1924?

1936

1940

1940-1941?

1943

1944-?

1948年頃

1948

?-1957

1953

1954

1958

1959

1960

1965

作曲年代不詳

 

Waldemar de Almeidaのピアノ曲楽譜

Campassi & Camin

Casa Bevilacqua

Irmãos Vitale

La fotolito (Roma)

斜字は絶版と思われる楽譜

 

Waldemar de Almeidaのピアノ曲CD・LP

星の数は、は是非お薦めのCD、は興味を持たれた人にはお薦めのCD、はどうしてもという人にお薦めのCD・LPです。

Realejo, Oriano de Almeida interpreta Waldemar de Almeida (LP)
RSLPC 7.002

  • Lenda
  • Divertimento N.º 1
  • Divertimento N.º 3
  • Divertimento N.º 4
  • Noturno
  • Valsa nobre - lá menor
  • Valsa nobre - lá maior
  • Pastoral
  • Acalanto e modinha
  • Hommage à Debussy
  • Realejo e desfile de quintal
  • Invocação
  • Prelúdio
  • Minueto
  • Dança de índios

Oriano de Almeida (pf)

 1969年の録音。

 

Marluze Romano interpreta Waldemar de Almeida (LP)
Universidade Federal do Rio Grande do Norte, Projeto Memória-5, UFRN-005

  • Acalanto e Modinha
  • Minueto
  • Flor de Belém
  • Preludio n.º 2
  • Dança de Índios
  • Paisagens de leque
    • Valsa nobre
    • Borboletas
    • Passeio às Rocas
    • Desfile de quintal
    • Acalanto da bela infanta
    • Realejo
  • Divertimento n.º 4
  • Noturno
  • Toccata de Clô

Marluze Romano (pf)

 1983年の録音。

 

Compositores Potiguares

Luiza Maria Dantas (pf)

 

Compositores Potiguares II

Luiza Maria Dantas (pf)

 2006年のリリース。Compositores potiguaresとは「リオ・グランデ・ド・ノルテ州の作曲家達」という意味。上記2枚のCDを聴くと、ブラジルにはまだ知られざるピアノ曲を作った作曲家がいて、当研究所もまだまだ調べることがあるということが分かります。

 

Brazilian toccatas and toccatinas

Vânia Pimentel (pf)

 2000年の録音。

 

Waldemar de Almeidaに関する参考文献