Alberto Williamsについて

 Alberto Williams(アルベルト・ウィリアムス)は1862年11月23日、ブエノスアイレスに生まれた。

 7歳の時には、既に演奏会を開いたらしい。1876年に、開校したばかりのブエノスアイレスの音楽演劇学校に入学、ピアノと和声を勉強した。

 1882年7月には奨学金を得てフランスに留学し、パリ国立音楽院でピアノと和声法・対位法を学んだ。セザール・フランクに作曲を師事したとのこと。この頃のウィリアムスは、ワーグナーの音楽に傾倒していたらしい。1886年以降はいくつかの彼のピアノ曲がパリやドイツで出版されている。アルゼンチンに帰る1889年には彼の初めての管弦楽曲、"Primera Obertura de Concierto, Op. 15(演奏会用序曲第1番、作品15)" がパリで初演された。

 7年の留学を終えて1889年にブエノスアイレスに戻ったウイリアムスは、翌1890年以降ピアノリサイタルを精力的に行っている。プログラムにはベートーベン、メンデルスゾーン、シューマン、ショパンの作品に混じって自作のピアノ曲が加えられている。また1890年には、民族主義作曲家としての出発点であるピアノ曲 "El rancho abandonado(捨てられた畑小屋), Op. 32-4" が作られた。また同年にウイリアムスはブエノスアイレス州フアレス Juárez の町外れの農場でパジャドール Payador(アルゼンチンやウルグアイの牧童や住民の中でギターを伴奏に即興で歌う歌手のこと)のグループが歌う旋律を採譜したが、それらの旋律の一つは1909年作曲の《インカの歌曲集、作品45 Canciones incaicas (初版ではCanciones incásicasと綴った)》の第3曲〈ビダリータ Vidalita〉として有名になった。その後もアルゼンチンのフォルクローレを題材に採った1904年作曲の "Aires de la pampa, Hueyas(パンパの歌ーウエジャ集)Op. 46"、1912年作曲の "Aires de la pampa, Vidalitas(パンパの歌ービダリータ集)Op. 61"、"Aires de la pampa, Gatos(パンパの歌ーガト集)Op. 62"、"Aires de la pampa, Milongas(パンパの歌ーミロンガ集)Op. 63,64" などを次々と発表した。

 ウィリアムスは指揮者としても活躍した。1894年にはワーグナー演奏会を、1895年にはベートーベン交響曲第7番での指揮を執ったらしい。1900年にはドイツを訪問。ベルリンフィルを指揮して自作の演奏会用序曲第1番、第2番を演奏している。

 更にウィリアムスはは教育者としも様々な活動をした。1893年にはブエノスアイレス音楽院の設立に関わっている(後にウィリアムス音楽院と呼ばれるようになった)。更には自分の弟子を使って、アルゼンチンに百校以上の音楽院を開校させている。また音楽関係の著書としては "Teoría de la música"、"Teoría de la armonía"、"Teoría del contrapunto"、"Teoría de las formas musicales"、"Problemas de solfeo" などがある。更に彼はヒナステラを始めとして、多くのアルゼンチンを代表する作曲家やピアニストを育てた。ウィリアムスのピアノ譜を見ると、そのの殆どに細かくペダルやuna cordaの指示が記されていて、とても教育的な?楽譜である。また1919年にブエノスアイレス音楽院の雑誌として "La Quena" を創刊し、1936年まで定期刊行した。1940年には同じ "La Quena" という名前で自ら出版社を設立し、自作の作品全集を出版した。

 1918年にはブエノスアイレスのコロン劇場でウィリアムスの交響曲第1番, Op. 44と交響曲第2番, Op. 55が演奏された。1930にはパリでウィリアムスの作品だけの3夜連続演奏会が、1937年にはウィリアムス満75歳記念コンサートがコロン劇場で行われ、交響曲第5、6、7番が演奏された。1940年にはトスカニーニ指揮NBC交響楽団のブエノスアイレス公演で、交響曲第7番の第二、三楽章が演奏された。

 1939年、フランス政府よりChevalier de la Légion d'honneur(=レジョン・ドヌール勲5等)を授与されている。

 1952年6月17日、アルベルト・ウィリアムスは死去。89歳の大往生であった。

 ウィリアムスは多作家である。管弦楽曲では2曲の演奏会用序曲、9曲もの交響曲、オーケストラのためのミロンガなど。自作のピアノ曲の管弦楽編曲も多い。室内楽曲ではピアノトリオ、フルートソナタ、3つのヴァイオリンソナタ、チェロソナタなどがある。合唱曲では「アカペラによるアルゼンチン合唱組曲」などがある。歌曲も多く計83曲作っていて、「インカの歌、Op. 45, 57」が代表作。

 自身がピアニストであったウィリアムスは、圧倒的にピアノ曲が多い。ピアノ曲リストをご覧頂ければ分かるが、一体何百曲作ったんだか数え切れないほど膨大である。ウィリアムスの作品は作曲時期によりおおよそ3期に分けることができる。第1期はヨーロッパ留学を終える1890年までの頃で、シューマンやショパンの影響の強い、普通のロマン派的な作品を書いている。第2期は1910年頃までの時期で、民族主義作曲家として "Aires de la pampa" の一群のピアノ曲などを作り始めている。第3期は1910年頃以降は交響曲第2番で見られるようにワーグナー風のライトモティーフを多用したり、ドビュッシーなどのフランス印象主義の影響を感じさせる作品を作っている。
  彼のピアノ曲について、ピアニストのアルトゥール・ルービンシュタインに言わせると、「アルベルト・ウィリアムズは水で薄めたセザール・フランクに、あちらこちら思いがけずシューマンが顔を出し、ときには大胆なドビュッシーの五音音階が挿入される、といった曲をいくつもいくつも作曲していた。」(ルービンシュタインの自伝/神に愛されたピアニスト (上)、著/アルトゥール・ルービンシュタイン、訳/木村博江、共同通信社、1983年)、とちょっと厳しい評価である。私自身はウィリアムスのピアノ曲の半分弱くらいしか聴いていないので、彼の作品の全貌について述べることは出来ないのですが、確かに題名は異なれど曲の作り方がどれも似ている印象で、曲のクライマックスになるとやたら増三和音または全音音階を響かせて済ませている場面が多いような気がする。何故これだけの大量の似たようなピアノ曲を当時の出版社は次々と出版を続けたのだろう?。自分の弟子を使ってアルゼンチン国内に多数の音楽院を開校した件も併せ、ともかくアルベルト・ウィリアムスは音楽界を牛耳る「政治力」に非常に長けていたような気がしてならない(あくまで個人的意見です)。そうは言え、彼の作曲したミロンガなどはアルゼンチン風味満点で、"Poema de la quebrada(小川の詩)" や "Poema del valle(谷間の詩)" などは作曲技法も高度で、今まで殆ど紹介されていないのが本当に勿体なく思えます。その他にもウィリアムスが南米最南端のフエゴ島を訪れた印象にもとづき作曲されたという "Poema fueguino(フエゴ島の詩=レオポルド・ゴドフスキーに献呈)"なども興味深く、彼のピアノ曲の多くはまだまだ知られざる未知の山なのかも知れません。

 

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