Luis A. Calvoについて

 Luis Antonio Calvo(ルイス・アントニオ・カルボ)は1882年8月28日、サンタンデール県Gámbitaに生まれた。父親はFélix Serrano、母親はMarcelina Calvoで、ルイスが生まれた時には、4歳年上の姉Florindaがいた。しかしFélixとMarcelinaは結婚しておらず、Félixはカルボが生まれた頃には姿を消し、Marcelinaはシングルマザーとなって二人の子どもを育てなければならなかったとのこと。幼いルイス・アントニオ・カルボは地元Gámbitaの教会の聖歌隊に入り、「いい声だ」と評判だったとのことである。

 1891年、母Marcelinaは子供達のためもっと大きな街へ移ろうと決意。家と家財道具全てを売り払い、母は13歳のFlorindaと9歳のルイスを連れて、Tunja(首都ボゴタの約150キロ北の街)に移り住んだ。Tunjaでの一家は貧しく、幼い二人の子供も生活のために働かなければならなかった。ルイスは仕立屋の見習い、学校の門番、雑貨店の店員などの仕事をした。(姉Florindaは住み込みの家政婦をした。)雑貨店の店員の時は上司が暴力的で、ルイスはいつも殴られていて痣が絶えなかったとのこと。いっぽう雑貨店のオーナーPedro José Gómez Leónはヴァイオリン弾きで、ヴァイオリンなどの音楽を学ぶ事ができたらしい。10歳の時、彼は地元の楽団のシンバル奏者の職に就いた。楽団では大太鼓、ボンバルディーノ(チューバの一種)の演奏も覚え、そして16歳の頃からは専門の先生についてピアノとヴァイオリンを学ぶこともできた。18歳の頃からは作曲も始めている。

 母Marcelinaは息子の更なる音楽的環境を願い、一家は1905年に首都ボゴタに出た。ボゴタでは陸軍軍楽隊のボンバルディーノ奏者に就いた。1907年、カルボのピアノ曲"Livia"を聴いた国立音楽アカデミー教授Rafael Vásquezはその才能に驚き、学費のないカルボに奨学金を与え、そのおかげでカルボは国立音楽アカデミーに入学。Guillermo Uribe Holguínらに師事し、チェロ、ピアノ、和声、対位法を勉強した。その後、カルボは "Entusiasmo (Pasillo)" (1909)、間奏曲第1番(1910) など次々とピアノ曲などを発表していく。1912年にはペドロ・モラレス・ピノの率いる楽団「リラ・コロンビアーナ」にチェロ奏者として参加している。1913年には米国ビクター社の録音機がコロンビアに運ばれ、同年11月にはカルボの作品の19曲(またはそれ以上)が、3人のトリオ演奏または歌とピアノで録音され、カルボ自身も演奏に参加している。

 1916年3月、カルボに悲劇的転機が訪れる。彼は皮膚症状が発症、鼻粘膜から癩菌が証明されハンセン氏病と診断された。強制的にクンディナマルカ県アグア・デ・ディオス (Agua de Dios) という所にあるサナトリウムに隔離されることになった。5月12日、カルボはボゴタを出発。Tocaimaという所まで汽車に乗り、そこから馬車に揺られて約8キロの所にサナトリウムはあった。途中に川を跨ぐ橋があり、そこから先は一般の人は立ち入ることが出来なかった。患者と家族はそこで今生の別れを惜しんだので、その橋は "Puente de los suspiros(ため息の橋)" と呼ばれていたと。

 しかしカルボはAgua de Diosでも精力的に作曲を続けた。彼の友人達は山里のサナトリウムにピアノを送った。1916年6月には早くもサナトリウムで演奏会を催し、自分で歌を歌い、ピアノを弾いている。1920年からは約20名から成る「Agua de Dios楽団」を結成して指揮をし、様々な合奏を行い、また少年合唱団の指導まで行った。宛らAgua de Diosの娯楽委員長であったとのこと。

 カルボはその後、何度かAgua de Diosから外出して首都ボゴタやメデジンを訪問する許可を与えられた。1941年にはボゴタ市立劇場でコロンビア国立交響楽団を指揮して、自作の "Escenas pintorescas de Colombia(コロンビアの絵画的光景)" を演奏している。

 1942年10月18日、カルボは病の中、Agua de Diosで患者達の世話の仕事をしていたAna Rodríguezと結婚。

 1945年4月22日、カルボは腎不全のためアグア・デ・ディオスの病院で62年の生涯を終えた。

 カルボはは生涯258曲(器楽曲173曲、歌曲85曲)を作ったとされているが、その内の約半数は曲名の記録が残されているだけで楽譜も録音もないため、どんな曲だかが分かっていません。オペレッタ "Noche en París(パリの一夜)"、合唱と管弦楽のための "Escenas pintorescas de Colombia(コロンビアの絵画的光景)"、数十曲の歌曲などがあるが、大部分はピアノ曲として出版されている。但し、カルボ自身はもともと小アンサンブルでの演奏を目論んで作曲したが、楽譜の出版は(家庭での演奏を考慮して)ピアノ独奏用版で印刷されたーといった曲も多い印象です。Bambuco、Danza、Foxtrot、Gavota、Marcha、Mazurka、Pasillo、Tango、Valseといったジャンルのピアノ小品を多数作った。演奏技法上ではあまり重たくなく、軽快なリズムと親しみ易い旋律から成る、いわばサロン風の作品である。(但しカルボは「私は真の音楽を書きたいと思っているのだが、大衆はそれを望んでない・・・大衆が好きなのは単調なワルツ、激しいバンブーコ、意気揚々の行進曲とかだ。でも踊りに使えない音楽は売れないし、売れない音楽は何の価値もないんだ。」と語っていたとのこと。)カルボはコロンビアから出たことがなく、ヨーロッパ近代の複雑な作曲技法を学ぶ機会が無かったためか、同時代の世界的な作曲の流れからは百年位遅れている感じがする。歴史上に名を残す作曲家とは言い難いだろう。しかし、それでもカルボの作品は素晴らしいと思う。コロンビアの民族舞踊のリズムを用いた "Entusiasmo " は楽しいし、"Intermezzo" など自分の知ってる作曲技法の中で、思いきり美しく、切ない音楽を書いているのだから。

 

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