Alejandro García Caturlaについて

 アレハンドロ・ガルシア・カトゥルラ Alejandro García Caturla は1906年3月7日、キューバ中部ラス・ビジャス州(現在のビジャ・クララ州)レメディオス Remedios の町に生まれた。アレハンドロの父Silvinoは地元の検察官で、母Diana de Caturlaの祖父は州知事を勤めた名家と、裕福な家庭であった。幼いアレハンドロは、カトゥルラ家の使用人である黒人の乳母Barbara Sanchezが子守歌に歌う「ルクミ」や「ニャニゴ」を聴きながら育ち、乳母に連れられ地元のパランダス Parrandas という伝統的な祭りの音楽を聴くのが好きだったとのこと。

 アレハンドロ・ガルシア・カトゥルラは8歳よりピアノ、ヴァイオリン、ソルフェージュを習い始めた。またオペラ好きの叔父に連れられ、近くの町で上演されているオペラを頻繁に聴きに行き、1920年一年だけでもハバナで上演された15以上のオペラを聴き、40以上のオペラのスコアを眺めていたとのこと。15歳の時には《永遠に君が好きだ I love you forever》という自作のピアノ曲を出版、レメディオスの町の映画館でピアノを弾いていた。

 1923年、アレハンドロ・ガルシア・カトゥルラは叔父の使用人の黒人女性マヌエラ・ロドリゲス Manuela Rodríguezと深い仲になり、マヌエラは妊娠。彼は実家を出て、マヌエラと共に暮らすようになった。同年夏、カトゥルラはハバナ大学法学部に入学。12月にはマヌエラは男の子を出産した。カトゥルラはマヌエラとの間に計8人の子をもうけた。

 大学時代にカトゥルラは、当時「ミノリスタ」と呼ばれる革命思想家の若者達の友人を多数作った。特に作家・ジャーナリスト・音楽評論家であるアレホ・カルペンティエル Alejo Carpentier (1904-1980) とは生涯の友となった。カトゥルラは法学部学生である一方、音楽活動も活発で、1922年にゴンサロ・ロイグらにより創立されたばかりの“オルケスタ・シンフォニカ”や、1924年に創立された“オルケスタ・フィラルモニカ”にヴァイオリン奏者として参加したり、ハバナ大学の学生による“ジャズ・バンド・カリベ Jazz Band Caribe”のピアノ奏者をしたり、ラジオ局で歌を歌ったり、ハバナの映画館で無声映画のピアノ弾きをしていた。“オルケスタ・フィラルモニカ”の指揮者であるスペイン人のペドロ・サンフアン Pedro Sanjuán から作曲を習ったが、カトゥルラはサンフアンの教える伝統的な作曲法に反抗したような曲を作り、サンフア ンに「破壊者」と呼ばれていたと。1923年から1927年頃までが、カトゥルラが最も数多くの作曲を行った時期で、サロン風の曲、サウメルやセルバンテスなど先輩キューバ人作曲家の影響を受けた曲、そしてピアノ曲《ルクミの踊り Danza lucumí》(1925)、《太鼓の踊り Danza del tambor》(1927) などの彼独自のアフロキューバ的な作品と作風が変遷していく。

 1927年1月、カトゥルラは民事法の学位を得てハバナ大学を卒業。レメディオスに戻り弁護士や裁判官として働いた。その一方、彼のアフロキューバ的な語法による初の管弦楽曲《キューバ序曲 Obertura cubana》などを作曲した。同年夏、キューバ政府の弾圧によりハバナ大学は閉鎖、「ミノリスタ」のメンバーは次々と逮捕され、カルペンティエルも逮捕された。カトゥルラもいつ自分が逮捕されるのではという恐怖に怯えていた。カルペンティエルは釈放されると、カトゥルラと共にフランスのパリへ行こうと計画を始めた。カトゥルラにとってもパリで管弦楽法を学び、自作をパリで演奏・出版して広めたいとの思いがあった。翌1928年3月にカルペンティエルはパリに向けてキューバを出発、6月にはカトゥルラもキューバを離れパリに向かった。

 パリでカトゥルラはナディア・ブーランジェに作曲を師事した。カトゥルラ自身の言では、「ナディアが言うには、僕のせいでナディアは怒髪天を衝く思いだ」と大変な生徒だったようだが、ナディア・ブーランジェはカルペンティエルにこう語ったとのこと。「私は滅多にあんな才能のある生徒に出会ったことはないわ。だから私は彼を変えたくないの。私は彼が作曲し、スコアを分析するのにアドバイスを与えているだけ。」パリでのカトゥルラの作品には、《ルクミの踊り》と《太鼓の踊り》のオーケストレーションを含む管弦楽曲《3つのキューバ舞曲集 Tres danzas cubanas》、カルペンティエルの詩による男性二部合唱と管弦楽のための《典礼 Liturgia》などがある。またパリではプロコフィエフなど多くの作曲家と交友する機会を持った。特にメキシコから留学していたマヌエル・ポンセとは交流を深め、ポンセはカトゥルラの音楽の紹介に努め、《太鼓の踊り》のパリでの出版を助けている。

 1928年10月、カトゥルラはキューバに帰国。故郷レメディオスに戻り裁判官を務める一方、汎米作曲家連合 Pan American Association of Composers (PAAC) からの依頼で管楽器とピアノのための《ベンベ Bembé》を作曲した。

 1929年9月、カトゥルラはバルセロナ万国博覧会での「交響楽フェスティバル」に招待されスペインを訪問。セビリアではエルネスト・アルフテルの指揮で《3つのキューバ舞曲集》が演奏され、そして10月13日、バルセロナの「交響楽フェスティバル」で《3つのキューバ舞曲集》が演奏された。その後パリにも立ち寄り、カルペンティエルの依頼で歌曲《2つのアフロキューバの詩 Dos poemas afrocubanas》を作曲している。

 また1929年にカトゥルラはキューバの音楽家達と共に現代音楽協会 Sociedad de Música Contemporanea を設立。1930年には現代音楽協の演奏会で《2つのアフロキューバの詩》がキューバ初演された。また1931年には、規模が大き過ぎて演奏される機会のない《典礼 Liturgia》を管弦楽曲に編曲した《ヤンバ・オー Yamba-O》を作った。また1932年末から1933年まではOrquesta de Conciertos de Caibariénという自分の楽団を創立し、何回かの演奏会を行った。

 1935年7月、カトゥルラはキューバ東部のパルマ・ソリアーノの町の裁判官に任命された。彼は貧しい労働者の立場にたった判決を下すことが多く、1936年にはミランダ砂糖工場の経営者を労働基準法違反で有罪にしている。その為だろうか、1936年12月には彼は危うく自宅で暗殺されそうにもなったこともある。1937年2月よりはキューバ中部のケマード・デ・グイネスという小さな町の裁判官に転勤する。これらのカトゥルラの後年は裁判官としての仕事に忙しく、作曲活動は減っている。それでも1937年の文化庁教育局の作曲コンクールに、1927年作曲の《キューバ序曲》と新作の《管弦楽のための組曲 Suite para orquesta》を応募。前者は一等賞、後者は佳作に選ばれた。

 1938年8月、カトゥルラは再びレメディオスに戻った。遡る同年の1月には妻マヌエラが腸チフスで死去。カトゥルラはマヌエラの妹カタリーナ Catalinaと暮らし、カタリーナとの間に3人の子をもうけている。レメディオスで裁判官として働き、殆ど作曲をしなくなったのとは裏腹に、彼の作品は国外で知られるようになっていく。ウルグアイのモンテビデオ大学教授で音楽学者のドイツ人Francisco Curt Langeが創立したアメリカ大陸音楽協会 Instituto Interamericano de Música は、カトゥルラの合唱曲《白い馬 El caballo blanco》と《コーヒー農園の歌 Canto de cafetales》を出版した。

 裁判官としてのカトゥルラは弱者の味方であったようである。囚人の待遇改善を働きかけたり、逆に地元の警官による犯罪を罰したりもしたと。軍や警察からは怨まれていたらしい。1940年11月12日、カトゥルラはレメディオスの町の路上でJose Agracha Betancourtという男に拳銃で撃たれ死亡。Betancourtは逮捕され終身刑に処せられたが、殺人の動機は解明されなかった。

 カトゥルラの作品には上記の《キューバ序曲》(1927)、《3つのキューバ舞曲集》(1928)、《典礼》(1928)、《ヤンバ・オー》(1928-31)、《管弦楽のための組曲》(1937) などの管弦楽曲、1934年頃より約4年をかけて作られた人形劇のオペラ《マニータ・エン・エル・スエロ Manita en el suelo》(1934-37)、《2つのアフロキューバの詩》(1929) などの歌曲、合唱曲、ヴァイオリン曲、ピアノ曲、映画音楽などがある。国際的に知られつつあったカトゥルラの作品は第二次世界大戦を経て忘れられていたが、キューバでは1959年の革命後、カトゥルラの再発見が行われている。1971年に開館した国立音楽博物館にはカトゥルラの作品の多くが所蔵され、1975年にはレメディオスのカトゥルラの両親の家が「アレハンドロ・ガルシア・カトゥルラ博物館」として開館した。また1979年にはキューバ国立バレエ団により、オペラ《マニータ・エン・エル・スエロ》が初演されている。

 カトゥルラの作品の中心は管弦楽曲であるが、ピアノ曲は50曲以上にのぼる。しかし録音が出ているのはその一部のみで全貌は明らかでない。上述した通り1923年から1927年にかけての作曲が活発な時期に、彼のピアノ曲は伝統的なロマンティックな作風から、シリアスなアフロキューバ的なものへと変わっていき、また和音も時代を先取りしたような不協和音の謎めいた響きが多くなる。同時代に活躍したレクオーナの耳に心地よいピアノ曲に比べると、カトゥルラの中期以降の作品はアフロキューバ音楽の神秘的で奥深い所ををクラシックに取り入れようとした「求道者」のようで取っ付き難く、知名度が今一つなのも已むないかなと思う。でも私には、カトゥルラが独自の世界を築いていこうとする真摯な姿勢が作品に滲み出ているような気がして、大好きです。

 

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