Aurélio Cavalcantiについて
アウレリオ・ベゼハ・カヴァウカンチ Aurélio Bezerra Cavalcanti は1874年6月4日、リオデジャネイロに生まれた。両親は魚屋の仕事をしていた。子どもの頃、彼の妹ヴィルジニアがピアノ教師についてレッスンを受けていたが、少年アウレリオはそれに耳を傾けていた。ある日、ピアノ教師がアウレリオに試しにピアノを弾かせてみると、彼は妹が習っていた曲の旋律を全部弾ききったとのこと。彼の才能に感銘したピアノ教師はアウレリオの父親を説得し、彼はピアノと音楽理論を学んだ。十代の頃は放課後に楽器店に寄っては展示販売されていたピアノを弾き、多くの人がそれを聴きに集まっていたとのこと。(年代は不詳だが)彼と妹ヴィルジニアはペドロ2世高校の卒業式に招かれて、式の前半、ブラジル皇帝ペドロ2世の御前でカルロス・ゴメス作曲のオペラ《グアラニー族》序曲ピアノ連弾版を演奏した。式の後半では彼は独奏でゴットシャルク作曲の《トレモロ》を弾く予定であった。式の前半のみで退席せねばならないペドロ2世は彼の演奏をもっと聴きたくなり、前半で《トレモロ》も弾くようにと命じたらしい。16歳の時には彼のピアノ曲《少女、スペインのワルツ Muchacha, Valsa hespanhola》の楽譜が出版され、当時のブラジルのピアノ・レパートリーとして流行した。
1896年、22歳のカヴァウカンチはD. Elvira Mendesと結婚し、後に8人の子どもをもうけた。彼は楽器楽譜店でピアノのデモンストレーション演奏を行い、またダンスクラブや、上流階級の邸宅で催される舞踏会(ダンスパーティー)に呼ばれてピアノを弾いて生計を立てた。当時のブラジルの職業ピアノ演奏家には2種類の呼び名があって、一つは主にコンサートホールでクラシック音楽を演奏し、音楽院の教授をするような人を指してピアニスタ pianista(ピアニストのポルトガル語)と呼び、一方、映画館の待合室、楽器楽譜店の店先、カフェ、キャバレー、ダンスパーティーなどでジャンルを問わず客の好みや要望に合わせた曲を弾く人はピアネイロ pianeiro と呼ばれていた。カヴァウカンチは紛れもなく後者のピアネイロであった。彼は自作のワルツ、ポルカ、ショッティッシュなども踊りに合わせて演奏していた。彼は人気のピアニストとなり、リオデジャネイロではダンスパーティーが成功するためにはカヴァウカンチがピアノを弾くことが不可欠だとさえ言われてた。カヴァウカンチは高額の出演料を請求していたが、それでもほぼ毎晩スケジュールで一杯であった。当時の作り話として、3組のカップルのうちどのカップルが最も長く踊れるかを競うコンテストがあった。カヴァウカンチのピアノ演奏で出場者は踊り、最後のカップルは1時間10分踊った末に諦めた。しかし、カヴァウカンチはピアノを弾き続けていた。誰かがカヴァウカンチに近づき、彼がいびきをかいていることに気付いた。彼は眠りながら演奏していたのだ。皆が見物に集まり、拍手が鳴り響いた時になってようやく彼は目を覚ました〜とありもしない噂話が広まるくらい彼は有名であった。左のイラストはリオデジャネイロの週刊誌「オ・マーリュO Malho」の表紙(第84号、1904年4月23日発行)で、「象牙の上を歩く二匹の神経質な蜘蛛のように」と評されていたカヴァウカンチがピアノを弾く姿が、カリカチュアで描かれている。カヴァウカンチはピアニスト、作曲家としての活動以外にも、映画館のオーケストラの指揮者も務めた。無声映画に合わせて彼は曲を作ったが、それらの劇伴の楽譜は殆ど現存していない。1907年のフランス短編無声映画『ピアノの誘惑 Le piano irrésistible』がブラジルで公開され、カヴァウカンチはこの映画のために同名のポルカを作曲した記録がある(楽譜は現存しない)。
カヴァウカンチは音楽ビジネスに於いても有能であった。自らのスケジュールを管理するための音楽事務所を設立し、邸宅での演奏では「6万レイスの出演料に加え、深夜の休憩で必ずボリュームたっぷりの夕食付き」を要求した。また楽譜出版業も行い、自らの作品のみならず、他の作曲家の作品も出版した。
1911年、レヴュー《 Ora Bolas...》の音楽をB. Montesと共作した(レヴュー〜ポルトガル語ではヘヴィスタ〜とは音楽を基盤に、歌と踊りを主とし、寸劇などから構成された軽快なテンポの音楽劇のこと)。
1915年11月15日、カヴァウカンチはリオデジャネイロの自宅で41歳の若さで亡くなった。この頃にはダンスパーティーが衰退してカヴァウカンチの仕事は減り、全盛期には数多くの仕事をこなし活躍していたにも関わらず、晩年のカヴァウカンチ一家は貧困に陥っていたとのこと。また彼は結核を患っていたらしく、また長年に亘る深夜の激務が健康状態に悪影響を及ぼしたとされている。
カヴァウカンチの作品で楽譜が現存する曲は全てが数分から成るピアノ独奏曲である。筆者の調べた範囲では(出版社のカタログや当時の雑誌の記事などで曲が存在した記録があるも楽譜が現存しないのも含めて)324曲がリストアップ出来ており、作品数からは同時期に活躍したエルネスト・ナザレやシキーニャ・ゴンザーガを凌ぐ多作家である。特に最盛期の1898年には一年間で少なくとも68曲が発表されている。
カヴァウカンチが作った324曲のピアノ曲を舞曲のジャンルで分けすると、ワルツ(スペインのワルツを含む)が圧倒的に多く192曲になる。次いでショッティッシュが75曲、ポルカが39曲、タンゴが5曲、クァドリーリャ(カドリーユ)が3曲と続く。彼のピアネイロとしての活躍の場は主に上流階級のダンスパーティーであり、華やかなワルツを量産してピアノ曲の約6割を占めたのも、ヨーロッパかぶれの顧客の嗜好に合わせたのであろう。プロフェッショナルに徹した彼らしい戦略である。ピアノ曲の書法も多くは右手はオクターブの旋律、左手は分厚い和音から成る伴奏で、騒がしいダンスホールやパーティー会場でも鳴り響く効果を意識したと思われる。一方、ブラジル特有の音楽と言えるタンゴ(タンゴ・ブラジレイロ)は僅か5曲で、同時代のピアネイロ・作曲家であるエルネスト・ナザレが90曲以上のタンゴまたはタンゴ・ブラジレイロを作曲して自らの音楽の軸としたのとは対照的である。カヴァウカンチとナザレは同じピアネイロでありながら、一方は上流階級の好みに合わせて稼ぐもその後忘れられた音楽家、もう一方は生前は裕福ではなかったが「ブラジルの魂そのもの」と称されて後世に名を残した音楽家、と二人の生きざまを比べると感慨深いものがあります。