Nicolás Ruiz Espaderoについて

 ファウスティーノ・デ・ヘスス・ニコラス・ルイス・エスパデロ Faustino de Jésus Nicolás Ruiz Espadero は1832年2月15日にハバナで生まれた。エスパデロの祖父はスペイン人で、植民地キューバに派遣されたスペイン艦隊の会計係であった。エスパデロ一家はキューバ人とは言え、支配者階級の裕福な家だった。子ども時代から彼は内向的な性格で、学校には通わず、少年時代に友達もいなかったとのこと。母からピアノを習ったエスパデロは4、5歳の頃には作曲を始めていたとのことで、8歳の時には3曲のマズルカを書いたとされている。1844年には、ショパンの友人として有名な作曲家・ピアニストのユリアン・フォンタナ (1810-1869) がキューバを訪れ、翌1845年まで滞在。エスパデロはフォンタナにピアノを師事している。また1848年にはハバナの芸術文学協会での演奏会に出演している。1856年からは同協会のピアノ教師に就いている。

 1854年、米国の作曲家・ピアニストのルイス・モロー・ゴットシャルク (1829-1869) がキューバを訪問した。ゴットシャルクは一年間キューバに滞在したが、その間エスパデロと交流を持った。その後ゴットシャルクは1857年と1859〜1862年にもキューバに滞在したが、その度にピアノリサイタルでゴットシャルクとエスパデロは共演している。キューバから一度も出たことのないエスパデロだが、ゴットシャルクやフォンタナらとの交流により彼の作品は欧米でも出版されるようになった。1860年にはピアノ曲《影と謎 Ombre et Mystére》がニューヨークで出版され、1861年からはパリの楽譜出版社Léon Escudierがエスパデロの作品を次々と出版した。

 1885年、キューバで最初の音楽院である「Conservatorio de Música y Declamación de La Habana」が創立され、エスパデロは名誉会員に選ばれた。

 エスパデロは社交性に乏しい人だったらしく、演奏会や芸術文学協会での教職を行った記録はあるものの、次々と作品を出した割には華やかな活動が少なかった。1885年に母親が亡くなってからは強迫性障害となり、外出もせず、人付き合いを殆どしなくなったとのこと。エスパデロは「アルコール風呂(かなり高濃度のアルコールらしい)」で入浴する習慣があった。1890年8月22日、エスパデロはいつものようにアルコール風呂で入浴したが、その後乾ききっていない皮膚に残ったアルコールがコンロの火に引火し大ヤケドを負い、8日後の8月30日に亡くなった。彼の精神障害の病歴から、これは自殺であったとする文献もある。

 エスパデロの作品の大部分はピアノ曲だが、ヴァイオリンのための《瞑想 Méditation、作品35》(1868)、歌曲《奴隷の歌 Chant de l'esclave、作品21》(1856)、《メロディア Melodía》(1859) なども残されている。作曲したとの記録があるものの、実際の楽譜が全く残っていない作品も多い。エスパデロのピアノ曲は大きく以下の4種類に分類できる。1)舟歌、バラード、スケルツォといった、ショパンへの傾倒を思わせキューバ風味の全くない作品、2)キューバの民族舞曲コントラダンサをピアノ曲にした気軽な小品、3)ロマン派の作曲技法を用いながらもキューバ音楽を素材とした本格的な民族主義の作品、4)イタリアオペラの編曲。1)はエスパデロは留学機会もなかった割には結構凝ったピアノ曲の数々であるが、ショパンの二番煎じと言われても仕方ないようにも思える。2)はキューバの先輩作曲家サウメル同様の興味深い数々の曲ではあるが、いかんせん1〜2分の小品である。エスパデロが作曲家としての個性を放っているのは3)に分類される2曲ー《キューバ風大幻想曲 Grande Fantaisie Cubaine》と《農民の歌 Chant du Guajiro》ーで、特に後者はキューバの民族音楽を高度なピアノ曲に昇華した知られざる傑作に思います。

 

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