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Maria de Lourdes Gondimについて

 Maria de Lourdes Hermes Gondim(マリア・ジ・ルールデス・エルメス・ゴンジン)は1901年3月15日、ブラジル北東部のセアラ州フォルタレザに生まれた。彼女の父Arlindo Granjeiro Gondimは大理石商を営んでいて、裕福な家庭であった。(1912年頃に父が建てた大邸宅は現在もフォルタレザに現存している。)幼少時より彼女は母からピアノを習い、次にBranca Bilharからピアノを習った。学校では休み時間に同級生が踊るのに合わせてピアノを弾いていたとのこと。1909年頃にBilharがリオデジャネイロに行くと、Aurelia Menezesにピアノを師事した。17歳の時にはフランス留学のオファーがあったらしいが、古いしきたりのゴンジンの家庭にとって若い女性が単身で海外留学するなど考えられず、留学の話は立ち消えになったとのこと。

 1919年7月、18歳のゴンジンは従兄で弁護士のJosé Leite Gondimと結婚。14人の子どもをもうけた。ゴンジンの娘の中でも3人の姉妹はヴォーカルグループ "As Tres Marias do Ceará(セアラの3人のマリア)" を結成して演奏活動を行った。また息子の1人Paulo Gondim (1934-) は後に作曲家・ピアニストとして活躍した。

 1937にはフォルタレザの「ジュヴェナウ・ガレーノの館」でピアノリサイタルを催して自作曲を演奏した。また同年より、ゴンジンの3人娘のグループ "As Tres Marias do Ceará" が地元のラジオ局で "Horas de Arte" というレギュラー番組を持つことになり、ゴンジンは娘達の歌の伴奏で出演した。更に1944年にはゴンジンは自らピアノ独奏するレギュラー番組を持ち、1959年まで続けた。1945年からは "Ala Feminina da Casa de Juvenal Galeno(ジュヴェナウ・ガレーノの館の女性連盟)" の会員となり、詩作を行い、自作曲のいくつかに歌詞を付けた。

 1947年6月、夫のJosé Leite Gondimが死去。ゴンジンは子ども達を養うために、フォルタレザ師範学校で音楽教員として働き始めた。1950年にはサンパウロとリオデジャネイロを訪れ、当地のラジオ局でピアノを演奏した。

 ゴンジンは自宅でホームコンサートを度々行い、地元の音楽家や詩人たちの発表の場であった。1975年に師範学校を退職してからは自宅でピアノを弾き、1987年3月19日にフォルタレザの自宅で亡くなった。

 ゴンジンは生前に63曲の作品を残している。全てがピアノ曲として作曲されたが、一部の曲は後にゴンジン自身により歌詞が付けられている。彼女は仕事や家事に忙しかったためか「楽譜を書いている暇がない」と漏らしていたらしく、どこかのバンドの指揮者を連れてきては自作のピアノ演奏を聴かせて、楽譜を書いてもらっていたらしい。彼女が自分で楽譜を書いていたならもっと多くの作品が残されていたであろう。ゴンジンのピアノ曲は全てが2〜3分の小品で、ショーロやタンゴと題された曲はナザレの影響を受けつつも、重音を多用した右手旋律やオクターブや分厚い和音からなる左手伴奏など自身がピアニストであったゴンジンらしい作風で、またワルツはしっとりとした哀愁漂う雰囲気で、心地よい作品揃いである。

 

Maria de Lourdes Gondimのピアノ曲リストとその解説

1926

1937

1946

1948

Date of composition unknown

 

Maria de Lourdes Gondimのピアノ曲楽譜

 "Valsas tangos choros para piano / Maria de Lourdes Gondim" という楽譜集が、ゴンジンの息子Paulo Gondimの編集で1997年にブラジルで出版されていますが、手に入っていません。

 

Maria de Lourdes Gondimのピアノ曲CD

星の数は、は是非お薦めのCD、は興味を持たれた人にはお薦めのCD、はどうしてもという人にお薦めのCDです。

Paulo Gondim, O pianista: Homenagem à Dona Maria de Lourdes Gondim - Minha mãe (LP)
990 079-1

Paulo Gondim (pf)

 

Maria de Lourdes Gondimに関する参考文献