Mozart Camargo Guarnieriについて

 モザルト・カマルゴ・グァルニエリ Mozart Camargo Guarnieri はサンパウロ州チエテ Tietê(州都サンパウロより120キロ西にある町)で1907年2月1日生まれた。イタリアよりの移民であった父はピアノやフルートを演奏できる音楽好きで、生後2ヶ月の洗礼の際にわが子の洗礼名をMozart(ポルトガル語読みで「モザルト」)とした。ちなみにその後生まれた3人の弟には順番にロッシーニ Rossine、ベッリーニ Bellini、ヴェルディ Verdi と命名したとのこと。(ちなみにカマルゴは母の姓、グァルニエリは父の姓で、子どもの頃はモザルト・グァルニエリと名乗っていたが、大人になって彼はこの大作曲家の名が自分についてるのを憚り、自分の名を記す時は両親の姓の両方を入れて、Camargoの前にはイニシャルのM. のみ書いたとのこと。)

 カマルゴ・グアルニエリの一家はあまり裕福でなかったが、子どもの彼は母からピアノを習った。父は息子がいいピアノで練習できるようにと、自宅のすぐ向かいにあるクラブに置いてあるピアノを使わせてもらえるよう取り計らったが、カマルゴ・グァルニエリはそのクラブのピアノで即興演奏ばかりしていたとのこと。彼は、既に11歳のときピアノ曲《芸術家の夢 Sonho de Artista》を作曲し、師のVirgínio Diasに献呈している(13歳のときにはこの曲は出版もされている)。

 1923年、一家はサンパウロに移住。カマルゴ・グァルニエリは父の理髪店を手伝いながらも楽譜店や映画館のピアノ弾きをして収入を得た。当時はレコードなどの音源の乏しい時代であり、客は店で楽譜を買おうと思ったら、楽譜店専属のピアニストにまず楽譜の曲を弾いてもらって買うか決めたとのこと。カマルゴ・グァルニェリは楽譜店での職を数カ月で解雇されてしまったが、その理由は良く売れるポピュラー曲を弾く代わりに彼は(あまり売れない)クラシックの棚にある楽譜をAから片っ端に暇さえあれば弾いてばかりで、Bach、Beethoven、Chopin、……Rachmaninoffと弾き続け、Sまで来たところでクビになったとのこと。彼はサンパウロ演劇音楽院に通い、また作曲家のエルナーニ・ブラーガ Ernani Braga に師事。1926年からはランベルト・バルディ Lamberto Baldi に5年にわたり作曲を師事した。

 1928年、21歳のカマルゴ・グァルニエリは、詩人・民俗学者・音楽評論家であるマリオ・ジ・アンドラージ (1893-1945) と知り合い、アンドラージから文学・美学・哲学といった教養を幅広く学び、その民族主義思想に影響されていく。同年にはピアノ曲《カンサォン・セルタネージャ Canção sertaneja》、《ブラジル舞曲 Dança brasileira》を作曲。1930年以降は、アンドラージの詩による歌曲を多数作曲した。

 1930年5月10日、ピアニストのLavínia Abranches Viottiと結婚し、長男が生まれた(しかし5年後の1935年には離婚している)。この頃の彼は、ブラジル民謡の研究をする一方、シェーンベルグやヒンデミットのスコアを分析していたとのこと。

 1935年にはサンパウロでカマルゴ・グァルニエリの作品のみによる演奏会が開かれ、ピアノ曲集《ポンテイオス第1巻 Ponteios, 1º caderno》や《弦楽四重奏曲第1番》、《チェロソナタ第1番》などが演奏された。また同年、アンドラージの働きかけにより新しく結成されたサンパウロ合唱団 Coral Paulistano の指揮者に任命された。この合唱団は、ブラジル人作曲家の作品を積極的にレパートリーに入れた初めての団体であった。

 1936年、名ピアニストのアルフレッド・コルトーが南米演奏旅行に出かけていた。コルトーはウルグアイでランベルト・バルディに会い、バルディのかつての弟子のカマルゴ・グァルニエリの事を聞いた。コルトーはブラジルに来るとカマルゴ・グァルニエリに会いその才能に感心、サンパウロ州知事に、カマルゴ・グァルニエリが留学できるよう奨学金をお願いする手紙を出した。1938年、コルトーの願いは叶えられ、カマルゴ・グァルニエリはサンパウロ州政府より奨学金を得てパリへ留学できることになった。出航の前日の6月25日、2番目の妻アニータ Anita (Ana Queiroz de Almeida e Silva)と結婚!。翌26日晩、サントス港を出航する船に乗り、新妻と共に彼はフランスへと旅立った。パリでは彼は作曲をシャルル・ケクランに、指揮をフランソワ・ルールマンに師事。翌1939年8月には作曲家ナディア・ブーランジェにも教えを受けている。パリでは自作の歌曲が演奏会で披露され、コルトーはリサイタルでカマルゴ・グァルニエリの《ブラジル舞曲 Dança brasileira》や《トアーダ Toada》を弾いた。しかし、1939年の第二次世界大戦の勃発によりカマルゴ・グァルニエリは帰国を決意、同年11月にブラジルへ帰っていった。

 ブラジルに戻ったカマルゴ・グァルニェリはサンパウロ合唱団のポジションも失ってはいたが、精力的に作曲を行い、また徐々と自分の生徒を増やしていった。1942年、全米連盟 The Pan American Union はカマルゴ・グアルニエリの《ヴァイオリン協奏曲第1番》にUS 750$の賞金を与えることとした。米国を訪れた彼は、12月1日にワシントンで表彰を受けた。また翌1943年3月には米国作曲家連盟 American League of Composers がニューヨークでカマルゴ・グァルニエリの作品演奏会を主催、この演奏会でピアノを弾いたのはレナード・バーンスタインだったとのことである。国際的作曲家となったカマルゴ・グァルニエリは、《弦楽四重奏曲第2番》が1944年にワシントン室内楽組合とRCAレコード共催の第1回室内楽コンテストで一等賞を、《交響曲第2番》が1947年にアメリカ交響曲コンペティションで二等賞を獲った。その後も数々の国内外の賞を獲得、また米国のみならず、南米のアルゼンチン、ウルグアイ、チリで自作を指揮する演奏旅行をおこなった。

 遡ること1937年、ドイツ出身の作曲家ハンス=ヨアヒム・ケルロイター (1915- 2005) がブラジルに移住してきた。彼はヒンデミットの弟子で、1939年以降「Movimento Música Viva」というグループを創立。ケルロイターのグループはブラジル音楽の表現においても無調主義と十二音階の使用を唱え、クラウジオ・サントロらの若い作曲家達に大きな影響を与えていた。これに対しマリオ・ジ・アンドラージは、作曲家はブラジルの民族音楽を特に重視し、民衆の生活からインスピレーションを得るべきだと主張し、この思想に影響されたミニョーネ、ロレンゾ・フェルナンデスらの作曲家は「民族主義者」として知られるグループを作っていた。この「民族主義」作曲家グループの代表ともいえるカマルゴ・グァルニエリはケルロイターらと対立。1950年にカマルゴ・グァルニエリは『ブラジルの音楽家と批評家への公開状 Carta aberta aos músicos e críticos do Brasil』を発表し、十二音技法を厳しく批判した。その後も議論はしばらく続いたが、やがてカマルゴ・グァルニエリ自身の作品にも無調の曲が含まれるようになった。

 1954年、カマルゴ・グァルニエリはアニータと離婚。1961年には3番目の妻となるピアニストのVera Silvia Ferreiraと結婚し、3人の子供をもうけた。

 その後もカマルゴ・グァルニエリは作曲家や指揮者としての活動はもとより、数々の内外のピアノや作曲コンクールの審査員などの要職を歴任した(1958年のチャイコフスキー国際コンクールの審査員も務めた)。1973年にはシカゴ交響楽団を指揮して、自作の《ピアノ協奏曲第5番》を演奏。1975年には新しく創立されたサンパウロ大学交響楽団の芸術監督・指揮者に就任、本人曰く、「私の人生での一番の賞だ」と喜んだとのこと。

 1993年1月13日、カマルゴ・グァルニエリは咽頭癌のためサンパウロで死去。享年85歳であった。

 カマルゴ・グァルニエリは多くのジャンルにおいて多作家である。管弦楽には《協奏的序曲 Abertura concertante》(1942)、《交響曲1~7番》(1944-1985)、《ヴィラ・リカ組曲 Suíte Vila Rica》(1958)、《祝祭序曲 Abertura festiva》(1971) などがある。協奏曲は《ヴァイオリン協奏曲1、2番》(1940, 1953)、《ピアノ協奏曲1~6番(6番は「ピアノ、弦楽、打楽器のための3つの楽章」とも呼ばれている)》(1931-1987) などを作曲した。室内楽曲では《管楽器のためのショーロ1~3番》(?-1929)、《弦楽四重奏曲1~3番》(1932-1962)、《ヴァイオリンソナタ1~7番(1番は紛失)》(?-1978)、《チェロソナタ1~3番》(1931-1977) などがある。マリオ・ジ・アンドラージやマヌエル・バンデイラの詩などによる多数の歌曲もある。

 彼は子どもの頃よりピアノに親しみ、国際的作曲家となってからも、世界各地のピアノコンクールの審査員を務めていた。ピアノ曲は多数あり、現在も幸いほとんどのピアノ作品はブラジルのRicordi Brasileira社などから出版されている。しかし、「民族主義」作曲家の代表とはいえ彼は完全に20世紀の作曲家であり、ピアノ曲は多くの場面で調性ははっきりしなかったり多調だったりと和声的に複雑で、半音階進行を含む複雑なポリフォニーで書かれた音楽は決して分かりやすいとは言い難い。分かりやすい曲といったら初期の《カンサォン・セルタネージャ》と10曲の《ヴァルサ Valsa》位かもしれない。カマルゴ・グァルニエリの伝記や解説書などには、彼の「民族主義」は民謡の主題を用いることではなく、民謡の精神を用いるとか、民謡の要素を潜在意識として吸収するとか難しい事が書かれてある。でも中南米のピアノ音楽を極めようとしたら、彼が心血注いで作った50曲から成る《ポンテイオス Ponteios》は外せないと思う。一流の作曲家としてのカマルゴ・グァルニエリの作曲技法やアイディアがぎっしりと詰まっているのに気がつくと思います。

 

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