César Guerra-Peixeについて

 セザル・ゲーハ=ペイシェ César Guerra-Peixe(ブラジル・ポルトガル語の発音ではゲーハ=ペイシと記す方が近い)は1914年3月18日、リオデジャネイロ近郊のペトロポリス市に生まれた。父親はポルトガルからの移民で鍛冶屋をしていたが、趣味でバンドリンを弾き、セザル・ゲーハ=ペイシェはよく父が参加しているショーロ演奏の集まりに連れてもらっていたとのことである。彼は子どもの頃からギター・バンドリン・ヴァイオリン・ピアノを習い、11歳で地元のSanta Cecília音楽学校でヴァイオリンとピアノを本格的に勉強した。14歳の時には地元の映画館の楽団でヴァイオリンを弾き、また軽音楽のバンド向けの作曲や編曲をしていたようで、1930年作曲のタンゴ《オチーリア Otília》という作品が残されている。その後、17歳でリオデジャネイロの国立音楽学校に入学し、ヴァイオリンや作曲などを習いつつ、カファテリアやバーでBGMを演奏して収入を得ていた。またブラジルの詩人・民俗学者・音楽評論家であるマリオ・ジ・アンドラージの著書『Ensaio sôbre a música brasileira』(1928) を読み、この本に収められたブラジル音楽に大きな影響を受け、作曲の道を志そうとしたと自ら述べている。1941年にはブラジル音楽院に入学し、Newton Páduaに師事して作曲や対位法を学んだ。

 この頃、ドイツからブラジルに移住してきた作曲家ハンス・ヨアヒム・ケルロイター Hans Joachim Koellreutter (1915-2005) が、ブラジル音楽の表現においても無調主義と十二音技法の使用を唱えていた。ゲーハ=ペイシェは1944年よりケルロイターに作曲を師事し大きな影響を受け、十二音技法による作品を次々と発表。彼の《交響曲第1番》は十二音技法とブラジル民族音楽を融合させようと試みた作品で、1946年にロンドンBBC交響楽団で初演された。また《ノネット Noneto》は1948年にチューリッヒ放送管弦楽団で演奏された。

 1940年代後半のゲーハ=ペイシェは十二音技法の前衛作曲家である一方、映画音楽の作曲やポピュラー音楽の編曲の仕事も行っていた。ラジオ局 "Rádio Tupi" ではオーケストレーションの仕事を沢山引き受け、ベートーヴェンの《ピアノソナタ「月光」》をスウィングに、ヨハン・シュトラウス2世の《美しく青きドナウ》をサンバに編曲して演奏したとのこと。また1941年に初めてブラジル北東部にあるペルナンブーコ州の州都レシフェを訪れて以来、ノルデスチ(ブラジル北東部)の民族音楽に興味を持っていた。1949年にゲーハ=ペイシェはCélia Pintoと結婚し、間もなくレシフェに移り住み、レシフェのラジオ局の音楽スタッフとして勤めた。この頃から彼は十二音技法による作品を止めて、民族主義的な作品へと作風を変化させていた。彼は「私が重んじている民族性を自作品にきわ立たせることの困難さのため十二音技法を止めた」と自ら述べていて(1952年)、十二音技法とブラジル民族音楽の融合に限界を自ら感じていたものと思われる。後年(1980年)になってゲーハ=ペイシェは「十二音技法は習いさえすれば簡単で、あれは音のゲームで、サイコロである。‥‥十二音技法はもう時代遅れである。‥‥テクニックのために使われるテクニックである。」と告白している。1950年には管弦楽曲《荘厳な序曲 Abertura solene》がレシフェ市主催の作曲コンクールで一等賞を受賞。またペルナンブーコ州の音楽を調査・研究し、1952年には『レシフェの音楽の一世紀 Um século de música no Recife』という文章を地元の新聞に連載し、1955年には『レシフェのマラカトゥ Maracatus do Recife』という本を著した。作曲家としては、1952年撮影の映画『Canto do mar』ではサウンドトラックを担当し、好評を得ていくつかの賞を得た。1952年末にサンパウロに転居すると、 サンパウロのラジオ局 "Radio Nacional" でポピュラー音楽のオーケストレーションの仕事をする一方、サンパウロ州内の各地を訪れては民族音楽を調査・研究した。

 ゲーハ=ペイシェは1962年頃にリオデジャネイロに移り住み、翌1963年よりRádio MEC交響楽団 Orquestra Sinfônica Nacional da Rádio Ministério da Educação e Cultura のヴァイオリン奏者として活躍し、指揮者を務めることもあった。またミナス・ジェライス連邦大学、サンパウロ大学、リオデジャネイロ連邦大学、ヴィラ=ロボス音楽学校などで教鞭をとった。一方彼は、MPBの編曲家としても活躍を続け、ルイス・ゴンザーガ、トム・ジョビン、シコ・ブアルキらの作品の編曲を手がけた。

 1993年11月26日、リオデジャネイロで亡くなった。

 ゲーハ=ペイシェの作品は、1944年までの初期、1944年から1949年までの十二音技法の時期、1949年から1960年までの民族主義の時期、(6年間の作曲を中断していた時期を挟んで)1967年から晩年までの民族主義総括の時期の4期に分けることができる(ゲーハ=ペイシェ自身は最後の第4期を民族主義の「潜在意識の段階 fase "subconsciente"」の時期としている)。初期の作品の多くはゲーハ=ペイシェが自ら破棄してしまっており、ピアノ曲《子供の組曲第1集》など僅かが現存するのみである。十二音技法の時期の代表作は室内楽のための《ノネット》(1945)、《交響曲第1番》(1946)、《フルート・クラリネット・ファゴットのためのトリオ第1番》(1948) などがある。ピアノ曲も十二音技法でいくつも作曲した。民族主義の時期にはゲーハ=ペイシェの代表作が多い。《ヴァイオリンソナタ第1番》(1951)、《交響組曲第1番「パウリスタ Paulista」》(1955)、《交響組曲第2番「ペルナンブカーナ Pernambucana》(1955)、歌曲《アラゴアスの民謡集 Trovas alagoanas》(1955)、歌曲《カピシャーバの民謡集 Trovas capixabas》(1955)、《ピアノのための小さな協奏曲》(1956)、《交響曲第2番「ブラジリア Brasília」》(1960)、《ピアノトリオ》(1960) などがある。また多くのブラジル映画のサウンドトラックを担当した。ピアノ曲でも《組曲第2番(ノルデスチーナ)》(1954)、《組曲第3番(パウリスターナ)》(1954) といった民族音楽を元にした魅力溢れる作品を作っている。1966年以降は、民族主義を更に発展させたような作品群を作っていて、《クラリネットとファゴットのためのDuo》 (1970)、《ヴァイオリンと室内管弦楽のためのコンチェルティーノ》(1972)、《ヴァイオリンソナタ第2番》(1978)、ギターのための《遊び Lúdicas》(1979-1980)、ガイタ(ハーモニカ)とピアノのための《4つの事柄 Quatro coisas》(1987) などがあり、ピアノ曲では何と言っても10曲から成る《熱帯の前奏曲集》(1979-1988) が代表作。

 ゲーハ=ペイシェのピアノ曲を分析してみると、あちこちにブラジルの、特にノルデスチ(ブラジル北東部)音楽の楽器・リズム・旋律の利用が見つけられ、ブラジル民族音楽への造詣の深さはヴィラ=ロボスをも遥かに越えているように思えてくる(私個人的には、ゲーハ=ペイシェの音楽を知ってしまうと、ヴィラ=ロボスの有名な台詞「私はフォルクローレそのものである O folclore sou eu」の割には、ヴィラ=ロボスの自作品への民族音楽の取り込みが上っ面のレベル止まりに思えてしまうほどである。)十二音技法までをも知り尽くした彼の高度な作曲技法と民族音楽の融合こそ、ゲーハ=ペイシェのピアノ曲の魅力である。

 

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