Juan José Castroについて

 Juan José Castro(フアン・ホセ・カストロ)は1895年3月7日、ブエノスアイレス近郊のAvellaneda市に生まれた。彼の父親はスペインのガリシア州からの移民でチェリストであり、コロン劇場などのチェロ奏者を務めていた。フアン・ホセ・カストロは五人兄弟の二男であるが、兄の長男José María Castro (1892-1964)と、弟の五男Washington Castro (1909-2004)も後に作曲家になったという、音楽一家である。フアン・ホセ・カストロは子供の頃から父に劇場に連れてもらっていたとのことで、ヴァイオリンや作曲を習った(作曲はコンスタンティノ・ガイトにも師事した)。作曲家として1914年にはヴァイオリンソナタを、自らのヴァイオリンと、師コンスタンティノ・ガイトのピアノ演奏で初演している。

 1916年にアルゼンチン政府よりヨーロッパ留学の奨学金授与が決定され、1920年、フアン・ホセ・カストロはパリに留学。スコラ・カントルムに入学し、ヴァンサン・ダンディに作曲を、Eduardo Rislerにピアノを師事した。奨学金のみではパリでの生活は経済的に苦しく、レストランやカフェで、バンドの指揮やピアノ弾きをして生計を立てていたとのこと。1921年1月には演奏会を催し、師のEduardo Rislerとの共演でウェーバーのコンチェルト・シュトック (作品79) の2台ピアノ版を弾いている。また1922年3月にはフアン・ホセ・カストロのヴァイオリンソナタがパリでも初演され、翌4月には名ピアニストのリカルド・ビニェスはパリでアルゼンチン作曲家のピアノ曲のリサイタルを行った際に、フアン・ホセ・カストロ作曲の "Danza" を演奏した。1924年にはヴァイオリニストのManuel Quirogaと共に、スペインへ演奏旅行に行っている。同1924年には故国アルゼンチンで、彼の作った交響詩 "En el jardín de los muertos" がエルネスト・ドランゴーシュの指揮により初演されている。

 1925年5月、フアン・ホセ・カストロは五年の留学を終えアルゼンチンに帰国した。アルゼンチンでは演奏家として、弦楽四重奏団体を結成し第一ヴァイオリン奏者を務めた。作曲家としても、1925年に、ブエノスアイレスで指揮者のエルネスト・アンセルメがフアン・ホセ・カストロの交響詩 "A una madre" を初演したりと有名になっていった。フアン・ホセ・カストロが最も活躍したのは指揮者としてで、 1928年にルネッサンス室内オーケストラを創立・指揮し、更に1929年にはコロン劇場の常任指揮者となり、同年5月の演奏会でファリャの「恋は魔術師」のアルゼンチン初演を指揮した。その後も、コロン劇場で近代作曲家の数々の作品ー1930年にプロコフィエフのバレエ音楽「道化師」、1932年にストラヴィンスキーの「春の祭典」、ラヴェルの「スペインの時」ーのアルゼンチン初演を行った。また、1929年8月にはアルゼンチン教授協会オーケストラを指揮して、自作の "Suite infantil"(管弦楽版)を初演した。

 1929年10月、フアン・ホセ・カストロは、アルゼンチンの他の進歩的な作曲家のGilardo Gilardi、José María Castro、Jacobo Ficher、Juan Carlos Pazと共にGrupo Renovación(新しい集団)というグループを結成。1929年10月29日に催された第1回演奏会では五人の作品が演奏され、フアン・ホセ・カストロはピアノ曲 "Scherzo" を発表した。Grupo Renovaciónの演奏会は1944年6月まで計62回催されたが、フアン・ホセ・カストロがその後作品を発表したのは、第2回 (1930年7月12日ー歌曲"Balada del poeta a caballo"、"Mantan-tiru-liru-la")と第12回(1933年12月6日ーピアノ曲 "Suite infantil")の2回のみである。

 1933年、フアン・ホセ・カストロはグッゲンハイム財団より給費を受け、アメリカに八ヶ月滞在し、ニューヨークで指揮などを行った。1940年代から1950年代前半は、世界各国のオーケストラを指揮した時期である。1941年12月にはアメリカのNBC交響楽団を指揮して3回演奏会を行った(その内の1回は、ちょうど日本軍の真珠湾攻撃による太平洋戦争の開戦日に当たり、フアン・ホセ・カストロは演奏会でアメリカ国歌を指揮したとのこと)。1942年にはメキシコ大学交響楽団、アメリカのナショナル交響楽団を指揮。1947-1948年のシーズンにはキューバ・フィルハーモニーの常任指揮者として、計22回の演奏会を指揮。1949年から1951年まではウルグアイのSODRE交響楽団の正指揮者を務めた。1950年から1951年にかけては、ユーゴスラヴィア、フランス、イギリスなどで指揮。1952-1954年のシーズンにはオーストラリアのヴィクトリア交響楽団(現在のメルボルン交響楽団)の常任指揮者として、計95回の演奏会を指揮。1954年から1955年にかけてはイタリア、スイス、スペイン、イギリス、ユーゴスラヴィア、ノルウェー、フィンランドなどで演奏会を指揮した。

 1956年よりは、再び故国アルゼンチンでの音楽活動を主とするようになる。1956年に国立交響楽団の正指揮者に就任。また同年にはオペラ "Bodas de sangre" が、フアン・ホセ・カストロ自身の指揮でコロン劇場にて初演された。1958年には国立芸術基金の理事のメンバーに任命された。

 1959年、当時プエルト・リコを本拠地にしていた、チェロ奏者のパブロ・カザルスが創立したプエルト・リコ音楽院の学部長職をカザルスから要請され、1964年までその職を務めた。

 1968年9月3日、ブエノスアイレスで死去した。

 フアン・ホセ・カストロは数々の作品を作ったが、指揮者として活躍しただけあって、まず管弦楽曲に傑作が多い。"En el jardín de los muertos (1923)"、交響曲第1番 (1931)、"Sinfonía argentina (アルゼンチン交響曲, 1934)"、"Sinfonía de los campos (田舎の交響曲, 1939)"、"Corales criollos No. 3 (1953)"、"Suite introspectiva (1961)" などが代表作。また、カンタータ "Martín Fierro (1944)" は、アルゼンチンの詩人ホセ・エルナンデスの同名の詩文をテキストとして作曲した、バリトン独奏、混声合唱、管弦楽のための演奏時間45分の大作である。協奏曲では、ピアノ協奏曲 (1941)、ヴァイオリン協奏曲 (1961) があり。室内楽曲では、弦楽四重奏曲 (1943) がある。バンドネオンのための "Sonatina campestre (1948)" という曲も作曲した。オペラは3作あり、うち "La zapatera prodigiosa (素晴しい靴屋の奧さん, 1943)" と "Bodas de sangre (血の婚礼, 1952)" はスペインの詩人、劇作家ガルシーア・ロルカの戯曲を台本としている。歌曲も多く作っていて、"Seis canciones de García Lorca (ガルシーア・ロルカの詩による6つの歌曲, 1938)"、"Tres canciones cordobesas (コルドバの3つの歌曲, 1939) などがある。バレエ音楽、映画音楽も作曲した。

 フアン・ホセ・カストロにとってピアノ曲は、主となるジャンルではないが、それでもCD2枚分の作品を残している。現代作曲家らしく、和声などは高度で難解である。"Tangos" や "Corales criollos No. 1" といった民族主義的な作品でも、アルゼンチン情緒を楽しむといった雰囲気ではなく、不協和音を通して彼の世界観を世に問うような作品である。それでも、彼の作品に向き合ってみると、じっくり聴くに値するいろいろな作曲の工夫や意図が見えてくるようで興味深いです。

 

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