Alexandre Levyについて

 アレシャンドリ・レヴィ Alexandre Levy は、1864年11月10日、サンパウロで生まれた。彼の父アンリ・ルイ・レヴィ Henry-Louis Levy はフランス生まれで、1848年頃にブラジルに移民するとポルトガル語のエンリキ・ルイス・レヴィ Henrique Luiz Levy に名を改めた。エンリキ・ルイス・レヴィはクラリネット奏者で、サンパウロに来てからは1860年にCasa Levyという楽器・楽譜店を開いていた(創業時は宝石や香水の販売店だったが間もなく輸入楽器・楽譜店に変わった)。またアレシャンドリの母はフランス系スイス人で、同じくブラジルに移民として来ていた。アレシャンドリが生まれる3年前の1861年には、兄のルイス・レヴィ Luiz Levy が生まれていて、兄も作曲家兼ピアニストである。父の店には多くの音楽家が訪れていて、アレシャンドリは子どもの頃より音楽的な環境の中で育ったらしい。フランス人ピアニストでサンパウロに住んでいたガブリエル・ジロードンや、ロシアやドイツから来ていた教師にレッスンを受け、アレシャンドリ少年は当時モーツァルトとも比べられた位の神童だったとのことである。15歳の時には、カルロス・ゴメス作曲のオペラ《グアラニー族 Il Guarany》の旋律を用いて、《A. C. ゴメスのオペラ「グアラニー族」による2台ピアノのための華麗な幻想曲 Fantasia brillhante sull' Opera Il Guarany di A. C. Gomes composta por due pianoforti》を作曲している。

 1882年には兄ルイス・レヴィと共に叔父が住むアルゼンチンのブエノスアイレスを訪れ、当地で兄とピアノの演奏会を催している。1883年にはサンパウロで父と共に音楽愛好家達によるクラブ・ハイドン Clube Haydn を設立し、1885年にはクラブ・ハイドンの演奏会で指揮をした。

 1887年5月、父の援助を受けアレシャンドリ・レヴィはヨーロッパ留学をする。イタリアのミラノに数日滞在した後に、フランスのパリに滞在した。パリではヴィンチェンツォ・フェローニやエミール・デュランに対位法や和声法を師事した。またパリを訪問したブラジル皇帝ペドロII世に御前演奏をした。しかし、彼は約半年の滞在のみで、同年の11月にブラジルへ帰国した。このことについて、彼はとても寂しがりやの性格でホームシックになってしまったためとする文献が多いが、当初より(おそらく彼の母の意向で)数ヶ月程度の滞在を計画していたのであろうとする文献もある(レヴィがヨーロッパ滞在中に記した日記が残されており、ホームシックになった気配はほとんど無い)。

 ブラジル帰国後はピアニストとして、またサンパウロの新聞 "Correio Paulistano" で音楽評論を多数発表するなど活動していた。1892年1月17日、27歳の若さで、独身のままアレシャンドリ・レヴィは亡くなった。特に大きな持病もなかったようで、突然の死亡だったとのこと。

 アレシャンドリ・レヴィは短い生涯ながらいくつかの作品が残されており、管弦楽曲では《交響曲ホ短調 Sinfonia em mi menor、作品21》(1886-1888)、交響詩《コマラ Comala》(1890)、管弦楽組曲《ブラジル組曲 Suite brésilienne、作品20》(1890, 4曲から成るが第2番は散逸している、第4番〈サンバ Samba〉が有名)などがある。室内楽曲では《ピアノトリオ、作品10》(1882)、《弦楽四重奏曲、作品11》(1885)、《ピアノトリオニ短調、作品18》(1889)、弦楽四重奏のための《夢 Rêverie、作品19》などがある。

 彼の作品ではピアノ曲が多い。ヨーロッパロマン派の影響、特にシューマンの影響、次いでメンデルスゾーンとショパンの影響が多くの曲で聴かれる。ブラジル民族主義的な作品と言えるのは僅かで、具体的には〈サンバ〉と《タンゴ・ブラジレイロ Tango Brasileiro》くらいなのだが、後に詩人・民俗学者・音楽評論家で有名なマリオ・ジ・アンドラージ(1893-1945)は、ネポムセノと共にアレシャンドリ・レヴィのことを「ブラジル音楽における民族主義の根幹を作った作曲家」として讃えている。

 

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