Francisco Mignoneについて

 フランシスコ・パウロ・ミニョーネ Francisco Paulo Mignone(ブラジル・ポルトガル語の発音ではミニョーネではなくミニョーニである)は1897年9月3日サンパウロに生まれた。父のアルフェリオ・ミニョーネ Alfério Mignone は前年の1896年にイタリアから移民してきたフルート奏者であった。

 幼時よりフルートとピアノを習った彼は、13歳の時には地元サロンの楽団でフルートとピアノを演奏していたとのこと。15歳でサンパウロ演劇音楽院 Conservatório Dramático e Musical de São Paulo に入学しピアノ及びフルート、作曲を勉強。1917年に卒業した彼は、翌1918年にはサンパウロ市立劇場に出演しグリーグのピアノ協奏曲第一楽章のソリストを務め、またこの時彼の自作の管弦楽曲が父アルフェリオの指揮で初演されている。更にこの頃ミニョーネはシコ・ボロロ Chico Bororó のペンネームでポピュラーソングやダンス向けの軽い管弦楽曲を発表していた。

 1920年、ミニョーネは奨学金を得てイタリアに留学する。生活費のために、シコ・ボロロ名義で自作のポピュラーソングをブラジルに送っていたとのことである。ミラノ音楽院(ヴェルディ音楽院)で作曲・和声・対位法などを学んだ彼は、1921年にオペラ《ダイヤモンド商人 O contratador de diamantes》を完成。第2幕の踊りの〈コンガーダ Congada〉は有名となり、オペラ全曲の初演に先立ち作られた《ダイヤモンド商人-管弦楽組曲》の第4曲〈コンガーダ〉は、1923年ウィーンフィルのリオデジャネイロ公演に於いてリヒャルト・シュトラウスの指揮で初演された。オペラ全曲の初演は一時帰国したミニョーネ臨席のもと、1924年9月リオデジャネイロ市立劇場で行われた。ヴェルディ音楽院終了後もミニョーネはしばらくヨーロッパに留まった。1927年から1928年にかけてスペインに住み、オペラ《無垢の人 O inocente》を作曲した。

 1928年、ブラジルに帰国したミニョーネは、サンパウロ演劇音楽院の和声学教授に就任。また、同じサンパウロ演劇音楽院出身の学友のマリオ・ジ・アンドラージ Mário de Andrade(1893-1945、詩人、民俗学者、音楽評論家)の民族主義思想に影響されていく。アンドラージはオペラ《無垢の人》が1928年にリオ・デ・ジャネイロで初演された時に、新聞に以下のように書いていた。
 「輝かしく、豊かで、数多いイタリア音楽楽派の中にいてもフランシスコ・ミニョーネはその一人に過ぎないであろう。しかし、ここ(ブラジル)では彼は代え難い価値となろう。Porque em música italiana, Francisco Mignone será mais um, numa escola brilhante, rica, numerosa, que ele não aumenta. Aqui ele será um valor imprescindível.」
 ミニョーネは、彼独自の民族主義的作品を次々と発表する。ピアノと管弦楽のための《ブラジル幻想曲 Fantasia brasileira》(1番;1929年、2番;1931年、3番;1934年、4番;1936年)などがこの頃の代表作である。また父のアルフェリオがオルケスタ・パウリスターナの指揮者に就任した関係で、シコ・ボロロ名義で発表した作品の多くが、1930年に父のフルートやオルケスタ・パウリスターナの演奏で録音された。

 1931年にピアニストのLiddy Chiaffarelliと結婚。

 1933年、ミニョーネはリオデジャネイロに転居し、翌1934年には国立音楽院(今のリオデジャネイロ連邦大学音楽学部)の指揮者に就任した。彼は指揮者としても活躍し、1937年にはドイツを訪問しベルリンフィルを指揮して自作曲やヴィラ=ロボスの作品を演奏、1938年にはローマのサンタ・チェチーリア音楽院管弦楽団を指揮して、自作のバレー音楽《シコ王のマラカトゥ Maracatu de Chico-Rei》を演奏するなど、ヨーロッパ各地のオーケストラを指揮した。1942年には米国に招待され、NBC交響楽団およびCBS交響楽団を指揮している。作曲家としても12曲から成る《街角のワルツ》(1938-1943) などのピアノ曲はもちろんのこと、バレー組曲《アマゾンの光景 Quadros amazônicos》(1939?)、交響的印象《教会の祭り Festa das igrejas》(1940) などの管弦楽曲を次々と作曲した。

 1962年11月、妻Liddyはヴァリグ・ブラジル航空機の事故で亡くなった。しかしミニョーネは2年後の1964年、ピアニストのマリア・ジョゼフィーナ・マガリャエス・シウヴァ Maria Josephina Magalhães Silvaと再婚した。

 1960年代には、5人の独唱と混声合唱、管弦楽のための《サンタ・クララの小さなオラトリオ Pequeno oratório de Santa Clara》(1962) や《ピアノソナタ第4番》(1967) のような無調およびセリーやクラスターの技法を用いた現代的な曲を作るようになったが、それと平行してピアノ曲集《ヴァルサ・ブラジレイラ Valsa brasileira》のような今までの作風を踏襲した曲も作り続けた。彼は70歳台の高齢になっても作曲意欲は衰えず、1976年にオペラ《ひやかし O Chalaça》、1978年に喜劇《軍隊の軍曹 O Sargento de Milícias》を作曲している。1982年にはシェル賞を受賞した。

 死の前年の1985年まで精力的に作曲を続けた彼であったが、1986年2月19日、ミニョーネはリオデジャネイロにて88歳の天寿を全うした。

 ミニョーネは多作家で、全て合わせると何百曲作曲したかも判らないくらいである(生涯に1024曲作ったと一応されている)。10~20歳代はシコ・ボロロのペンネームでポピュラー曲を多数作曲。その後は多くのジャンルに多数の作品を残した。管弦楽曲には《労働の交響曲 Sinfonia do trabalho》(1939)、交響的印象《教会の祭り》(1940)、《アマゾン横断交響曲 Sinfonia da Transamazônica》(1972) などがある。協奏曲は前述のピアノと管弦楽のための《ブラジル幻想曲 Fantasia brasileira 第1番、第2番、第3番、第4番》(1929, 1931, 1934, 1936)、《ピアノ協奏曲》(1958)、《ヴァイオリン協奏曲》(1960)、《2つのヴァイオリンのための協奏曲》(1966)、《ギター協奏曲》(1975) などを作曲した。バレー音楽では《シコ王のマラカトゥ》(1933) が代表作で、この曲はアフリカのコンゴのある部族のシコという名の王様が奴隷としてブラジルへ連れてこられたが、ブラジルの金鉱で働き、後に自由を得て奴隷解放運動に身を捧げるという伝説に基づいて作曲された。室内楽曲はピアノと木管楽器のための《六重奏曲第1番 1º Sexteto》(1935)、《弦楽四重奏曲第1番、第2番》(1957)、《木管五重奏曲第1番、第2番》(1961) などがある。器楽曲はなぜかファゴットのための曲が多く、またギター曲では《12の練習曲集 Doze estudios para violão》(1970)、《12のワルツ集 12 valsas para violão》(1970) などを作曲した。また百曲以上の歌曲、合唱曲、宗教曲があり、オペラは4曲作られていて、《ダイヤモンド商人》(1921) はブラジル植民地時代を舞台としている。更に2曲のオペレッタ、ミュージカル、映画音楽などを作った。編曲ものも多い。

 ミニョーネの音楽は(ミニョーネに限らずブラジルそのものが)ヨーロッパ、ブラジル先住民、アフリカの文化の影響を受けていると言われる。確かに彼の作品を聴いていると、ヨーロッパのロマン派の香り、アマゾン密林の響き、アフリカの踊りがそこかしこに聞こえてくる。しかしそれらが渾然一体となったミニョーネの作品はそのどれにも属さない、正に彼独自の世界であり、それが彼の作品の魅力である。

 ミニョーネのピアノ曲は、彼自身ピアニストでもあったこともあり、彼の作品群の中心を成すもので、ピアノソロだけでも232曲あると言われている。彼が10~20歳代の頃のピアノ曲はロマン派の影響を受けた習作のような作品が主である。しかし、ヨーロッパ留学から帰国後の1930年代になると徐々に民族主義的な作品が増え、1938年から作り始めた《街角のワルツ》において遂にミニョーネ節とも言えるスタイルを完成される。その後、1962年の《ピアノソナタ第2番》あたりからは無調でクラスターなどを用いた現代的な、民族主義からは離れた曲を作り始めるが、それと平行して《ヴァルサ・ブラジレイラ》のような分かりやすい民族主義的なピアノ曲も作り続ける。後者の作曲をも続けたのは1964年に結婚したミニョーネの2番目の妻で、ピアニストでもあるマリア・ジョゼフィーナの影響がおそらく強いだろう。またマリア・ジョゼフィーナと一緒になってからは、子ども向けのピアノ曲を多数作曲しているのも特徴的である。ミニョーネは晩年になっても作曲の筆は衰えず、87歳になる1984年においても何と1年に44曲のピアノ曲を作っているが、これも妻の励ましがあってではと思われる。また彼は自作のピアノ独奏曲や他のブラジル作曲家のピアノ曲を2台ピアノ用に編曲するのが好きで、これもマリア・ジョゼフィーナの希望だったという。それらの編曲を夫婦で仲良く弾いたのだろう。ミニョーネは編曲の際、オリジナルのピアノソロ原曲はそのまま第一ピアノとし、第二ピアノのパートをミニョーネが書き足している。ナザレのピアノ曲の編曲は2000年に全音楽譜の出版、舘野泉&水月恵美子のCD「タンゴ・デュオ」の発売で有名になったが、それ以外にもチコ・チコ・ノ・フバーで有名なゼキーニャ・ジ・アブレウのピアノ曲10曲をミニョーネが2台ピアノ用に編曲した版などもあり面白い。

 

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