Arnulfo Miramontesについて
アルヌルフォ・ミラモンテス・ロモ・デ・ビバル Arnulfo Miramontes Romo de Vivar は、1881年7月18日にメキシコ中西部ハリスコ州のタラで生まれた(出生日については同年6月19日、同年7月19日、1882年7月18日とする資料もある)。彼の幼少期についての記録は全くないが、彼の父が亡くなった1891年に一家は州都グアダラハラに引っ越しし、そこでミラモンテスはピアノやオルガンを習ったとのこと。12歳頃には一家はアグアスカリエンテスに引っ越し、13歳頃にはアグアスカリエンテスのグアダルーペ聖堂のオルガニストを務めた。19歳頃には自らのピアノ教室を開いてピアノ教師を務めた。
1908年にミラモンテスはドイツに渡りベルリンのシュテルン音楽院に約一年間留学し、マルティン・クラウゼにピアノを、フィリップ・リューファーに作曲を師事した。作曲クラスのコンクールでは彼の作った《弦楽四重奏曲第1番》は一等賞を得た。また自作の管弦楽曲《春の序曲 Obertura primavera》を自ら指揮して初演した。
1909年末にメキシコに帰国すると再びアグアスカリエンテスに居を構えた。1910年のメキシコ独立百周年を祝うアグアスカリエンテス市の演奏会で、ミラモンテスはベートーヴェンの交響曲第5番を指揮し、リストのピアノ協奏曲のソリストを務めた。また同年の独立百周年記念作曲コンクールでは、ミラモンテスがベルリン留学中に作曲した《弦楽四重奏曲第1番》が一等賞を得た。1911年に亡くなった母を偲んで作曲された2つの合唱曲《死者のための祭式 Oficio de difuntos》と《レクイエム Misa de Requiem》は1912年にアグアスカリエンテスのグアダルーペ聖堂で演奏された。
1914年(または1915年)にミラモンテスはメキシコシティに転居し、ピアニストおよび指揮者として活動した。また「ミラモンテス ピアノ・作曲アカデミー」という音楽教室を設立し、メキシコ各地に教室を開いた。1918年にはオペラ《アナウアク Anáhuac》がミラモンテス自身の指揮によりメキシコシティで上演された。《アナウアク》は17世紀初頭のメキシコが舞台のオペラで、この作品によってミラモンテスはメキシコ民族主義作曲家として有名になった。
1918年、ミラモンテスはMaría de Jesús Romo de Vivar (1878?-1932) と結婚した。ミラモンテスはドイツ留学前より彼女と恋仲であったらしいが、ミラモンテスの留学で一旦別れ別れになり、彼女は30歳以上年上の軍人と結婚。しかしその軍人は1916年に亡くなり、María de Jesúsはミラモンテスと再婚し、一人息子をもうけた。
1921年、オペラ《アナウアク》の米国ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場での上演交渉のためミラモンテスは米国を訪れた。《アナウアク》の上演には結局至らなかったが、ミラモンテスは米国内でいくつかのピアノリサイタルを催している。1923年から1924年にかけて彼はコロンビア大学の招待により米国を再訪問し、演奏会を催している。
1925年からは再びアグアスカリエンテスに住み、アグアスカリエンテス交響楽団の監督に就任して指揮をし、また1927年に「ベートーヴェン・フェスティバル」を催してベートーヴェンのピアノ協奏曲などを演奏した。
1936年に一人息子が16歳の若さで死去。同年にミラモンテスは再びメキシコシティに転居した。72歳になる1953年までピアニストとして演奏会を行い、78歳となる1959年頃まで作曲をしていたが、1960年3月13日、結膜悪性黒色腫および肝転移によりメキシコシティで亡くなった。
ミラモンテスの主な作品を記すと、まずオペラ《アナウアク》(1917) と《シワトル Cíhuatl》(1934) を作っている。管弦楽曲には《春の序曲》(1909)、《交響曲第1番》(1915)、交響的バレー音楽《Iris》(1926)、《交響曲第2番》(1933)、《革命交響詩》(1935)、《交響曲第3番》(1947) などがある。協奏曲には《ピアノ協奏曲》(1914) がありミラモンテス自身のピアノにより初演された。室内楽曲には《弦楽四重奏曲第1番》(1909)、《弦楽四重奏曲第2番「メキシコの歴史 Histórico mexicano」》(1938) などがある。器楽曲では《ヴァイオリンソナタ》(1917) などがある。宗教曲では《レクイエム》(1912)、《ミサ・ソレムニス》(1938) などを作っている。歌曲もいくつかある。
ミラモンテスは生涯に約180曲(組曲は各曲をそれぞれ数えて)を作ったが、うち約100曲はピアノ曲である。作風は概ねドイツ・ロマン派の影響が強く、20世紀の作曲家としては時代遅れの感があるが、彼のピアノ曲は独特のロマンティシズムと、名ピアニストであった彼の技倆を彷彿させるピアニズムが混ざり、なかなかの魅力的な作品揃いに思います。