Manuel M. Ponceについてマヌエル・マリア・ポンセ・クエラル Manuel María Ponce Cuéllar は1882年12月8日、メキシコ中西部サカテカス州のフレスニージョ Fresnillo という小さな町に、ポンセ家の12番目の末っ子として生まれた。彼が生まれて数ヶ月後、一家は150キロ南のアグアスカリエンテスに引っ越した。
ポンセの両親は音楽に詳しいわけではなかったが、母親は音楽好きで、子供達にピアノを習わせた。ポンセが最初にピアノを習い始めたのは4歳の時で、最初は姉のホセフィーナから習ったとのこと。少年時代の彼の遊び場はアグアスカリエンテス市内のサンマルコス公園で、そこで流しの民謡の歌い手の演奏をよく聴いたとのこと。1892年に地元のサンディエゴ教会の聖歌隊に入った彼はめきめきと才能を現わし、13歳でサンディエゴ教会の副オルガニストに、16歳の時には正オルガニストとなった。また8歳の頃からピアノ曲を作ったりしていた。1900年にポンセはピアノを専門的に習うため首都メキシコシティに移り住み、翌1901年1月に国立音楽院に入学しピアノと和声を学ぶが、同年の12月には退学して故郷のアグアスカリエンテスに戻ってしまった。(一説には、国立音楽院でポンセは初歩の課程から学ぶように強制されたため、ポンセにとって国立音楽院の授業は退屈で、習うことはもう何もなかったからだとのこと!。)アグアスカリエンテスでは教会のオルガニストを務めたり、音楽教師をして生計を立てた。また夜毎にサンマルコス公園で、ポンセは地元の詩人や画家とメキシコの芸術の将来について語り合っていたらしい。
1904年11月、ポンセは自分のピアノを売り払い自費でヨーロッパ留学に出発した。ニューヨーク経由で1905年1月にイタリアのボローニャに着き、ロッシーニ音楽院で作曲を学んだ。同年12月にはベルリンに移り、シュテルン音楽院で、リストの高弟であったマルティン・クラウゼにピアノを師事した。学費が尽きて1906年末(または1907年始め)にメキシコに戻った彼は、急浙したリカルド・カストロの後任として25歳の若さで1908年7月、メキシコ国立音楽院のピアノ科教授に就任。更に1910年には自らのピアノアカデミーを主宰し、1912年には教え子と共にメキシコ初のドビュッシーのピアノ曲全曲演奏会を催した。(教え子の中にはカルロス・チャベスがいて、この演奏会では13歳のチャベスはドビュッシーの〈月の光〉を弾いた。)またこの頃からポンセは、自らがメキシコ民族主義作曲家の旗手であると自覚し、数々のメキシコ的なピアノ曲やメキシコ民謡を元にした歌曲を作曲している。彼の民族主義は保守的な人達からの反発もあった。「若い音楽家(ポンセのこと)は、ワラッチェ(先住民の履いているサンダル)の臭いのする音楽を作っている」と揶揄されたと、後にポンセは述べている。それにもめげず彼は「全てのメキシコの作曲家は、自国の音楽をポリフォニックに展開し、メキシコの魂を表現している民謡を愛し守り、それに芸術性を与え、昇華する責務があると考える」と語っていた。またポンセは、メキシコ人作曲家による作品がまだ少ない管弦楽曲、ピアノ協奏曲、室内楽曲などのジャンルにも取り組んだ。オペラ《El patio florido》を1912年から1914年にかけて作曲したとされているが、楽譜は現存していない。
1912年暮れ、ポンセは故郷アグアスカリエンテスへ向かう夜行列車に乗っていた。車窓からの星空を眺めていた彼は、一曲の短い歌曲を作詞作曲した。それがポンセの最有名曲となった《エストレリータ(小さな星)Estrellita》である。
1913年頃、とあるコンサートでポンセはフランス出身のコントラアルト歌手のクレメンティーナ・マウレル Clementina Maurel と知り合う。二人は忽ち仲良くなり、間もなく二人は婚約をして、クレメンティーナはフランスへ戻っていった。
1915年3月から1917年6月までポンセはキューバに移住した。時はちょうどメキシコ国内はメキシコ革命の時期で、また国外は第一次世界大戦中であった。国立音楽院は一時的に閉鎖され、ポンセにレッスンを受ける生徒もいなくなり彼は収入が途絶えてしまった。そのためポンセはキューバのハバナに移り住み、演奏会を多数催し、ピアノを教え、「ベートーベン・アカデミー」をキューバに創立した。またいくつかのキューバ風味豊かな優れたピアノ曲を作った。1916年3月には彼はアメリカを訪れ、3月27日にニューヨークのエオリアンホールで全曲自作曲のリサイタルを開いてる。1917年4月にポンセがフィアンセのクレメンティーナに宛てた手紙には「いつ君は僕の所に来てくれるんだ?、いつ僕は腕の中に君を抱きしめる幸せを味わえるんだろう?」と綿々たる愛の言葉がしたためてある。
1917年6月、ポンセはメキシコに戻ることになる。ニューヨークからやってきた帰国の船にはクレメンティーナが乗ってきたとのこと。二人にとってキューバからメキシコへの船旅はどんなに幸せなものだったでしょう!。メキシコに戻ったポンセは国立交響楽団の指揮者に任命された。同年9月3日には晴れてクレメンティーナと結婚した。結婚式では国立交響楽団がバックでワーグナー・グリーグ・マスネの曲などを演奏をしたとのこと!。妻となったクレメンティーナは夫が作曲に専念できるよう、自宅の使用人にはゴム底の靴を履かせ、つま先歩きするように命じ、電話器やドアベルは綿で包んだ。彼女はポンセの書斎のドアの外で番をするように座っているのが好きだったとのことである。
1918年にはメキシコ国立音楽院のピアノ科教授に再び就任。また音楽関係の執筆家としても数々の著作や論評を発表した。1919年から1920年まではRubén M. Camposと共に『メキシコ音楽雑誌 Revista Musical de México』の編集長を務め、民族主義音楽の発揚を説いた。ポンセは指揮者・ピアニスト・教育者・音楽評論家としての活発な活動を通して、メキシコを代表する音楽家としての地位を固めていた。その多忙さのためかこの頃、作曲数は少なくなっていたが、交響的三部作《チャプルテペック Chapultepec》(1920-1922) などの重要な作品を作っている。
1923年、メキシコに演奏旅行に来ていたスペインのギタリスト、アンドレス・セゴビア Andrés Segovia のコンサートをポンセは聴き、彼はギターの音色に魅せられていく。二人は親交を深め、セゴビアはポンセに、今までクラシックでは作品の少なかったギター曲を作るように勧めた。同年ポンセはギターのための《ソナタ・メヒカーナ Sonata mexicana》を作曲。セゴビアはこの曲をヨーロッパ中で演奏し、成功を収める。ポンセはその後もギターのための曲を次々と作り、そのことにより作曲家として国際的に有名になっていく。
1925年5月、有名になったポンセは何を思ったのだろう、更に自分の作曲技法を高めようと思ったのか、42歳のポンセは妻を伴い2度目のヨーロッパ留学を果たす。パリのエコールノルマル音楽院で彼はポール・デュカスに作曲を師事した。門下生にはスペインのロドリーゴやメキシコの先輩作曲家のホセ・ロロンもいた。デュカスはポンセに「あなたは生徒ではない。あなたは光栄にも私の音楽を聴いて下さる素晴らしい音楽家だ」と讃えている。また、スペインの作曲家アルベニスが遺した未完のオペラ《メルリン Merlin》のオーケストレーションの仕事をデュカスはポンセに勧め、彼は2年かけてオーケストレーションを仕上げた。ポンセはアルベニス未亡人と娘から、《メルリン》の一部を演奏会用組曲に編曲するよう依頼も受け、4曲から成る交響的組曲《メルリン Merlin》(1929) を作った。自費でパリに留学していたポンセは経済的に厳しかった。そのため妻のクレメンティーナは1928年に一人メキシコに帰り、コンサートを行い夫の歌曲を歌い、収入を助けた。ポンセがヨーロッパに住んだおかげでセゴビアとの交流はますます深まっていった。セゴビアが1928年頃、日本や中国に演奏旅行した時の演奏会のプログラムにはポンセのギター曲が含まれている。貧しい環境の中、ポンセは音楽院に通い、作曲を続けた。1930年にはクレメンティーナがパリに戻り、再び二人は一緒になる。1932年7月、ポンセはエコールノルマル音楽院を卒業。卒業に際し、デュカスはポンセに10点満点の30点!を付けたとのことである。
1933年にポンセはメキシコに帰国。メキシコへの船にはセゴビアも同道していた。ポンセはメキシコ国立音楽院の院長とピアノ科教授を務め、またメキシコ民族音楽の講議を行った。妻のクレメンティーナは、多くのポンセの歌曲の初演を行った。また彼のオーケストラ作品も演奏される機会が増え、1934年11月にはニューヨークのカーネギーホールでストコフスキー指揮、フィラデルフィア交響楽団の演奏でポンセの作品が演奏されている。因みに、1940年にメキシコシティで発行された『日本 Japón』という本に、ポンセが寄稿した「日本の音楽 La música en el Japón」という文があって、日本の音楽についての簡単な解説があるとのこと。
セゴビアはポンセがパリに留学していた頃より、何度となくギターと管弦楽のための協奏曲を作曲してくれるよう頼んでいた。1941年1月、セゴビアが十余年待ち続けていた、ギターと管弦楽のための《南の協奏曲 Concierto del sur》が遂に完成。同年10月4日、《南の協奏曲》はポンセ臨席のもと、セゴビアのギターによりウルグアイのモンテビデオで初演され大成功を収めた。更に1943年には《ヴァイオリン協奏曲》がヘンリーク・シェリングのソロ、チャベスの指揮により初演された。
ポンセは1938年頃より腎臓病を患っていた。それに加え1945年頃からはリウマチ性疾患も患い、耐えられない関節痛のため一日十錠以上のアスピリンを飲んでいたとのこと。1948年2月26日、メキシコ大統領ミゲル・アレマンより「1947年度芸術科学国家賞」を音楽家として始めて受賞した。同年4月24日、メキシコシティにて尿毒症により65歳で他界。翌1949年、国立芸術院のホールは「マヌエル・M・ポンセ・ホール Sala Manuel M. Ponce」と命名された。
ポンセの作品は全部合わせると三百曲以上に達する。管弦楽曲では、弦楽オーケストラのための《夜の印象 Estampas nocturnas》(1910年頃)、交響的三部作《チャプルテペック》(1920-1922)、《祭り Ferial》(1940) などがある。協奏曲では、リストの影響の強い《ピアノ協奏曲》(1911)、セゴビアのために書かれたギターと管弦楽のための《南の協奏曲》(1941)、《ヴァイオリン協奏曲》(1943) がある。室内楽曲では《ピアノトリオ》(1905-12)、《弦楽四重奏曲》(1936) などがある。器楽曲では《チェロソナタ》(1922) などがあるが、彼の主要作となるのがセゴビアに会ってから次々と作られたギター曲で、《ソナタ・メヒカーナ》(1923)、《24の前奏曲集》 (1929-1930)、《「ラ・フォリア」による変奏曲とフーガ Variations sur "Folía de España" et fugue》(1929)、《南のソナチネ Sonatina meridional》(1930) など多数ある。珍しいのが《ギターとチェンバロのためのソナタ》(1929年頃) や《ギターとチェンバロのための前奏曲》(1936) で、でもギターの音量を考えてみればチェンバロとの取り合わせはとてもよいと思う。そのほか歌曲もオリジナル、メキシコ民謡の編曲共に多数作っている。あの有名な歌曲《エストレリータ》(1912) はヤッシャ・ハイフェッツによるヴァイオリン版など色々な楽器用に編曲されているので、原曲が歌曲であることを忘れられてしまいそう。
ポンセの作品がギタリストの間では重要なレパートリーとなっている一方、彼のピアノ曲は、日本はもとよりメキシコ以外の国のピアニストにはあまり弾かれていない。しかしポンセは自らがピアニストであったことでもあり、彼の作品の中ではピアノ曲が圧倒的に多い。ポンセは自ら「私はギターを甘い愛人のように付き合っていたが、一番好きなのはピアノだ、結局ピアノの所に戻って来るんだ」と述べている。1978年にポンセ没後30年を記念してメキシコで作られたLPの中に、カルロス・バスケスのピアノによる3枚組のポンセピアノ曲集が含まれている。そして1998年にポンセ没後50年を記念して、メキシコのピアニスト、エクトール・ロハスの演奏によるポンセピアノ曲全集の7枚組CDがソニーミュージック・メキシコより発売された。これによりポンセのピアノ曲の全貌が初めて明らかになり、その総曲数は組曲などを1つとして数えると110曲、組曲などの各曲をそれぞれ1つずつ数えて計算すると、何と186曲になる。その後も新発見されたピアノ曲が出てきたりで、全部合わせると200曲位になるようである。その作風は、一度目のヨーロッパ留学頃までの初期の作品は、バロック音楽やショパン、リストの影響を強く受け、またロマンティック・メキシコと呼ばれる先輩メキシコ作曲家の伝統を受け継ぎつつも、ポンセ独特の和声が顔を出すような曲が多い。1909年以降1910年代までは、ロマン主義に加えて民族主義的作品を活発に作曲している。そして1925年よりの二度目のヨーロッパ留学で、複雑は作曲技法を身につけることにより、フランス印象主義や新古典主義風の彼の作品はちょっと難解になる。日本でも全音楽譜出版社よりポンセのピアノ曲アルバムが出版されるなど、いくつかのポンセのピアノ曲の楽譜が発売されるようになったが、彼の膨大なピアノ曲の氷山の一角に過ぎない。ポンセのピアノ曲の全てが傑作というわけではないが、美しい旋律とハーモニー、そしてメキシコ風味に溢れる「こんな素敵な曲が」と思う作品がまだまだ世に知られていない。このHPにより一人でも多くのピアノ愛好者がポンセのピアノ曲を好きになってもらえば、と願います。