Eduardo Soutoについて

 エドゥアルド・ジョゼ・アウヴィス・ソウト Eduardo José Alves Souto は1882年4月14日、サンパウロ州南部のサントス市(または隣町のサン・ヴィセンテ市)に生まれた。ソウトは子どもの頃よりピアノを習い、一家が11歳でリオデジャネイロに移住してからは本格的にピアノのレッスンを受け、14歳の時にはピアノ曲《愛しい人、ワルツ Amorosa, Valsa》を作曲している。1899年にリオデジャネイロの理工科学学校 Escola politécnica(現在のリオデジャネイロ連邦大学理工学部)に入学して学ぶも、学費が続かず1902年に退学した。その後、20歳から35歳まで銀行員を勤めた。しかし銀行員として働く一方、リオデジャネイロの映画館(当時は無声映画)の楽団の指揮者や、近郊のニテロイにあるクラブの指揮者をしていた。

 1919年、ソウトがカーニバルのために作曲した歌《デルフィン様は帰らないといけない Seu Derfim tem que vortá》と《皆のために Para todos》がリオデジャネイロのカーニバルで演奏され、またピアノ曲《山の夜明け O despertar da montanha》を発表するとこれが大ヒット。作曲家として一躍有名になった。また彼は1919年にはリオデジャネイロに楽器・楽譜店 "Casa Gomes" を創業し、自らの作品やナザレの作品の楽譜を出版し、また経営者として活躍した("Casa Gomes" ではエルネスト・ナザレがピアノ弾きとして一時働いた)。1920年には《勿論です?! Pois não?!》がカーニバルの歌として流行した。同年、ベルギー国王夫妻がブラジル訪問した際、大統領宮殿(カテテ宮殿)でのレセプションの音楽を担当した。またロッククライミング好きの国王はリオデジャネイロ郊外にあるオルガンス山脈 Serra dos Orgãos を訪れ山中でキャンプをしたが、ソウトは楽団を引き連れて夜明け時のキャンプ場に行き、カルロス・ゴメスのオペラ《奴隷 Lo Schiavo》の間奏曲〈夜明け Alvorada〉を演奏して国王を驚かせたとのこと。その後もソウトは次々とカーニバルの歌を作曲しては、毎年のようにヒットした。また彼は合唱団 "Coral Brasileiro" を創立し、また自ら "Grupo Eduardo Souto"、"Orquestra Eduardo Souto"という楽団を率い、当時始まったばかりのレコード録音を行った。

 しかし1933年以降は音楽活動を辞めてしまった。原因は音楽業界に失望したとも、ラジオの普及のためとも、新しい世代の作曲家の台頭によるとも言われている。彼は再び銀行員として1940年まで働いたとのこと。

 1940年には神経疾患にて介護施設に入所し、1942年8月18日、リオデジャネイロで死去した。

 エドゥアルド・ソウトは約三百曲近くを作ったとされている。劇場作品としてオペレッタ《芸術家の情熱 Paixão de artista》(1921年初演)、レヴュー《リンゴ A Maçã》(1923年初演)、レヴュー《オモチャの中 Dentro do brinquedo》(1926年初演)などを作曲したが、いずれも曲の全体像は不明で、一部抜粋された曲の楽譜や録音が残されているのみである。ピアノ曲以外にも、マルシャまたはマルシーニャと呼ばれるカーニバルの行進曲風の音楽、ポピュラーソングなど多数あり。1920年頃にはリオデジャネイロのサッカークラブ「ボタフォゴFR」の公式応援歌《Glorioso》も作曲している(しかし1942年にLamartine Babo作曲した新たな応援歌が現在は有名で、ソウトの曲は殆ど知られていない)。彼は歌曲とピアノ曲の小品を多数作ったが、親しみやすい旋律によりピアノ曲として作られていても後に歌詞が付けられているケースもある。自ら作詞した曲も結構ある。先輩作曲家にあたるシキーニャ・ゴンザーガや、同時期に活躍したゼキーニャ・ジ・アブレウと同様、その作品がピアノ曲なのか歌曲なのか、クラシックなのかポピュラーなのかハッキリしない所が、ブラジル音楽のジャンルの垣根が低いことを示しているようで、そこがブラジル音楽のいい所である。ソウトの六十年の生涯の中で作曲家として活躍したのは僅か十数年で、その前後共に銀行員であり、特に1933年に音楽界からすっぱり手を引いたその引き際は、見事なまでである。彼の作風は十数年間ほとんど変わりなく、リオデジャネイロのカーニバルの発展のタイミングに合わせたように時代の寵児として突然に作曲家デビューし、驚異的なペースで新作を次々と発表し、十数年経ってカーニバルの流行が自分の音楽の先に進みつつあると悟るや、潔く身を引いたように思えます。

 

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