Heitor Villa-Lobosについて

  1. 少年期・青年期
  2. 作曲家としての発展期
  3. パリでの活躍
  4. 祖国ブラジルでの教育家としての活躍
  5. 米国や世界各地での活躍・晩年
  6. ヴィラ=ロボスの作品について
  7. ヴィラ=ロボスのピアノ曲について

I. 少年期・青年期

 エイトール・ヴィラ=ロボス Heitor Villa-Lobos は1887年3月5日、リオデジャネイロに生まれた。当時のリオデジャネイロはブラジル帝国の首都で、風光明媚で町並みは美しく静かな都市で、夜になると街角のあちこちで、ショーロの演奏家達が音楽を奏でていたーと多くの本に書かれている。彼の父方の祖父はスペインからの移民であったが、エイトールの父ハウルは自らをブラジル人として名乗ることを選んだのか、スペイン語綴りだとVillalobosだった姓を、ポルトガル語に近い(途中にハイフンが入る)Villa-Lobosの綴りにしたそうである。

 父ハウルは、エイトールが3歳であった1890年からリオデジャネイロにあるブラジル国立図書館の職に就いていた。ハウルはブラジルの歴史、地理、民族などに造詣が深く、自ら多くの古書を買って蒐集し、いくつかの著書もあった。この頃のブラジルは1889年に帝政が終わり連邦共和制に移行する変革の時代であり、ブラジル連邦共和国の初代大統領のフォンセカと副大統領フロリアーノ・ペイショトの間で政争を起こしていた。ハウルは政治にも関心が高く、副大統領ペイショトを批判する論説を新聞に発表したりしていたが、1891年にフォンセカに代ってペイショトが大統領に就任すると、ハウルは逮捕されるかもしれないという噂がたっていた。その上、ハウルが博学で古書を蒐集していたのが災いし、勤務中に図書館の蔵書を盗んでいたという嫌疑をかけられ、1892年に図書館を解雇されてしまった。ヴィラ=ロボス一家は逮捕を逃れるためリオデジャネイロを離れ、約一年間に亘りミナスジェライス州などの各地を転々とした。6歳のエイトールにとって、この田舎回りの経験はブラジル民謡を知る初めての経験になったと後に述べている。

 やがてハウルの友人達の協力で図書館の盗みの嫌疑が解け、また逮捕される恐れもなくなったことを知り、ヴィラ=ロボス一家は1893年にリオデジャネイロに戻り、ハウルは国立図書館に復職した。一家は平穏を取り戻し、チェロやクラリネットを演奏できた音楽好きのハウルは、土曜日の晩には友人達を自宅に招いてはアンサンブルを楽しんでいた。そういう時、エイトールの母ノエミアは、子供が父親達の演奏を邪魔しないよう寝室に行くよう促したが、少年エイトールはしょっちゅうアンサンブルを盗み聞きしていたとのこと。エイトールの音楽好きに気付いた父ハウルは、彼にチェロやクラリネットを教えた。ハウルの教育はとても厳格で、ヴィラ=ロボス自身が、後年インタビューで語ったところによると「電車の軋む音とか、小鳥の鳴き声とか、金属が落ちた音とかを聞いてその音高を直ぐに言えるように躾けられた。答えがはずれた時の叱られ方と言ったら‥‥」とのこと。また、少年時代のヴィラ=ロボスの友人によると「エイトール少年が笑っているのを見た事が全く無い」ほどであったらしい。しかし、エイトールは音楽以外にも父からブラジルの歴史や伝説をたくさん教わっていて、彼にとって本当は素敵な父親だったと思われる。(後年、彼が作った作品のいくつかは、父から教わった昔話を元にしている。)

 1899年7月18日、その父ハウルが亡くなった。(その年は天然痘が大流行していた。またマラリアで亡くなったとする文献もある。)一家の収入は途絶え、母ノエミアは喫茶店で働き始めた。貧しい家計の中、母はエイトールを医師にさせようと高校 (Colégio Dom Pedro II)に通わせたが、彼は勉強には興味がなく、母に内緒で近所の人からギターを習い、音楽仲間とショーロのアンサンブルをしてばかりであった。当時のリオデジャネイロは夜になると街角のあちこちでChorãoと呼ばれる音楽家達が、グループを組んではアンサンブルをして、一晩中その腕を競い合っていた。ヴィラ=ロボスは亡き父の蔵書を次々と古本屋に売っては、ショーロ仲間と付き合うためのお金にしていた。勉強せず音楽ばかりしているのを快く思わない母は、息子の音楽仲間を自宅に入れるのを禁じたが、それでも彼は友人宅で夜中までアンサンブルするのを止めず、ついには16歳の時、家出をして叔母の家に住んだとのことである。当時、Chorão達は楽譜が読めない人が多かったが、楽譜が読め、即興演奏に長けていたヴィラ=ロボスは重宝されたらしい。クラシックの演奏会でもチェロ奏者として活動していたようで、1904年の演奏会のプログラムのチェロ奏者の中に彼の名がある。

 20歳前後の、青春まっただ中?のヴィラ=ロボスについては謎が多い。1907年に彼はブラジル国立音楽学校 Instituto Nacional de Música を受験したが、失格したとされている。後にヴィラ=ロボスが作曲家として知られるようになった頃から、彼は自分自身の若い頃について、あることないことを大言壮語するのが好きで、自分はアマゾンの未開の奥地を冒険家のように歩き回ったと語っている。ヴィラ=ロボス自身が語った有名な作り話として、ある時、アマゾンの奥地を探検していたヴィラ=ロボスは人食い族の部落を見つけた。人食い族は、ある一人の若い女性をちょうど火炙りにしようとしている所であった。彼は咄嗟に人食い族の前に現れ、持っていたチェロを弾き始めた。ヴィラ=ロボスの弾くチェロの音色に感動した人食い族達は、お礼にとその若い女性を彼に譲った。その女性こそ、後にヴィラ=ロボスの妻となったルシーリアであるとのこと!?。また、ヴィラ=ロボスは自作品にしばしば用いられるブラジル民族音楽の出所についても、彼は大抵「自らアマゾンの奥地まで調査して集めた旋律である」と述べている。更に現在のブラジル先住民ですら知らないような、古代のブラジル先住民族の旋律も自分は使っているとまで語り、どうやってその旋律を知り得たのかと突っ込まれると、「オウムの鳴き声で知ったのさ。人間は忘れていてもオウムが覚えていたのさ。」とまで嘯いている。ヴィラ=ロボス本人が語る話がこんな感じなので、彼の若い頃の真相はよく分かっていないが、1908年頃はブラジル南部のパラナ州で生活のためにマッチ工場で働いたらしく(工場主の娘と恋に落ち、結婚寸前までいったとのこと)、1908年4月にはパラナ州パラナグアでチェロの演奏会をしたプログラムが残っている。また、1912年にはアマゾナス州マナウスにあるアマゾナス劇場での演奏会にチェリストとして出演している記録がある。(この演奏会のプログラムには、ヴィラ=ロボス作曲の《日本の女 Japoneza》という歌曲が記されている。)また、ヴィラ=ロボスの作品の大きな源となっている「ブラジル民族音楽」については、彼はこの頃、まめにリオデジャネイロの図書館や博物館で資料を調査し、当時のブラジル政府によるブラジル北部探検隊のメンバーが録音したシリンダーレコードを借りたり、後にパリに滞在していた時にはフランス国立図書館でも調査をしている。そんな地味な努力については自らはあまり語らず、「オウムの鳴き声さ!」と言い放つ所こそ、私個人的にはヴィラ=ロボスの大きな人間的魅力に思えますが?。また作曲技法についても、ヴィラ=ロボス自身は「私はどの作曲家の影響も受けてない」と強く言っていたが、実はこの頃、ヴァンサン・ダンディ著の『作曲学教程 Cours de composition musicale』などを読み、独学に励んでいたらしい。

II. 作曲家としての発展期

 1912年11月、ヴィラ=ロボスは友人に誘われて訪れたギマランエス一家のパーティーで、ピアノ教師をしているルシーリア・ギマランエス Lucília Guimarães (1886-1966) 嬢に出会う。パーティーでルシーリアが弾いたショパンを聴いたヴィラ=ロボスは、彼女の洗練されたピアノ演奏に比べて自分の演奏がいかに素人臭いかを悟ったとのこと。その後ヴィラ=ロボスのチェロとルシーリアのピアノによるデュオを重ね、二人の関係は深まり、1913年11月12日に二人は結婚した。収入の乏しいヴィラ=ロボスは、妻のギマランエス家に住みこみ、彼は昼はレストラン、夜はカファテリアでBGMを演奏し、時には国立劇場管弦楽団のチェロ弾きとしても働いては収入を得ていた。(「シネマ・オデオン」でもチェロを弾いていたらしく、この頃にナザレと共演もしていたと思われる。)この頃、狭いギマランエス家の住人はヴィラ=ロボスが来て9人にまで増え、その上ヴィラ=ロボスは気が向くと昼夜関係なくピアノを何時間も弾き、近所迷惑だったらしい。それにもかかわらずギマランエス家の人々は彼に温かく、特にルシーリアの弟ルイスは、ヴィラ=ロボスの秘書として音楽活動の手助けをした。ルシーリアと知り合い結婚したことは、元々ピアノについてあまり知らなかったヴィラ=ロボスにとっては、ピアノ技法を知る絶好の機会となった。実際、1912年以降に彼はピアノ曲を精力的に作曲している。

 1914年末頃には、ヴィラ=ロボスの作品は約80曲に達していたが、それらは出版や演奏される機会が殆どなかった。そこでヴィラ=ロボスは自ら自作の演奏会を計画し、1915年1月と2月にリオデジャネイロ近郊の町ノヴァ・フリブルゴ Nova Friburgo で3回の演奏会が催され、フルート・チェロ・ピアノのための《トリオ、作品25》などが演奏された(チェロはヴィラ=ロボス自身が、ピアノはルシーリアが弾いた)。この演奏会は好評で、同年7月にはリオデジャネイロで、彼の《弦楽合奏のための性格的組曲 Suite característica》がフランシスコ・ブラーガ Francisco Braga の指揮で初演され、これまた好評を得た。同年11月には全曲ヴィラ=ロボス作品による演奏会が催された。1917年2月にも全曲ヴィラ=ロボス作品演奏会は行われ、《弦楽四重奏曲第2番》などが初演された。

 1918年、ヴィラ=ロボスは、後に彼のピアノ曲の代表作となる《赤ちゃんの家族、第1集 Prole do bebê, N.º 1》を作曲しているが、この頃は作曲家としてはブラジルでも一部の人に知られているのみで、ましてや国際的にはまだ無名であった。そのヴィラ=ロボスが有名になるきっかけが、ポーランド出身のピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインとの出会いである。1918年から1922年の間にルービンシュタインが演奏旅行で訪れたブラジルでの、ヴィラ=ロボスとの初対面については、ルービンシュタインの自伝に詳しく記されているので、一部を以下に引用します。年代は不明ですが、おそらく1918年の出来事と思われます。(『ルービンシュタインの自伝/神に愛されたピアニスト (上)』、著/アルトゥール・ルービンシュタイン、訳/木村博江、共同通信社、1983年)

 音楽院の学生で私の信奉者である二人の若い音楽家が、私に一人の不思議な作曲家の話をしてくれた。
「天才です」
 と彼らは言った。
「教師の干渉や批評をすべてはねつけて、音楽院から二回退学になっています。決められた音楽教科を一切信用しないのです。彼は自分自身の創造力だけを信じ、何ものにも頼らない人間だと思います」
 この人物評が私の好奇心をかき立てた。
「どこでその男に会い、作品を聴けるだろうか?」
 と、私は尋ねた。
「お話するのは恥ずかしいのですが、彼は生計を立てるために、仲間と一緒にアヴェニダ・リオ・ブランコ通りの映画館で チェロを弾いています」
(中略)
 私たちは、その時間には客が誰もいない暗い映画館に入った。(中略)しばらくののち彼らはまた演奏し始めたが、今回は音楽、ほんものの音楽だった! ブラジルのリズムを採り入れていることはすぐにわかったが、その手法はまったく独特だった。混乱して無形式のようだが、ひどく魅力があった。
(中略)
 彼は浅黒い肌、きれいに剃った顔、黒いもじゃもじゃの髪、哀愁の漂う大きな眼をした小柄な男だったが、その手は目立って 魅力的で美しく、感じやすさと生命を感じさせた。私は彼にかたことのポルトガル語で話しかけ、彼はかたことのフランス語で答えた。私はいま聴いた作品に大いに興味を惹かれたことを話し、ピアノ曲は書いているだろうかとていねいに尋ねた。するとにわかに彼の態度が乱暴になった。
「作曲家はピアニストなんか相手にできない。成功と金ばかりに目がくらんだ連中だからね」
 この言葉に私はかっとなり、背を向けてそこを出た。
(中略)
 数日後の朝早く、蚊帳の中で寝ていると誰かがドアを叩いた。(中略)驚いたことに、十人ばかりの人たちが手に手に楽器を抱えて立っていた。一人はヴィラ=ロボスで、フランス語とポルトガル語を混ぜながら、私の求めに応じて自分の作品を聴かせるために来たと、懸命に説明した。
「仲間達は昼のあいだ忙しいもので、この時間にしか揃わなかったのです」
(中略)
 彼らは弦楽四重奏を演奏したが、その楽器の扱い方は斬新で、音楽に独得で新鮮な響きを与えていた。そのあとで演奏された、フルートとクラリネットのための《ショーロス》と呼ばれる小品は、私をひたすら魅了した。即興ではなく、完全な形式をそなえていた。違う楽器の組み合わせで、さらに一、二曲聴いた。形式はとらえにくかった。その頃までに私は、自分が重要な主張を持つ偉大な作曲家を前にしていると確信した。
(中略)
 リオでの最終公演で、私は《ア・プローレ・ド・ベベ》の第一曲を弾き、野次りとばされた。のちには、音楽院教授が書いているような真にブラジルらしい愛すべき作品を弾かない、と抗議の手紙も受け取った。

 ルービンシュタインはヨーロッパに戻ってからもヴィラ=ロボスのピアノ曲を演奏会で取り上げ、後々に亘って、ヴィラ=ロボスの作品の普及に協力している。

 1919年、ヴィラ=ロボス夫妻はやっと妻の実家を出て、リオデジャネイロで長屋の一室に二人の住居を構えた。この頃のヴィラ=ロボスは、色々な打楽器の音に興味を持ったり、果ては医学校から人体骨格を買ってきて、それを揺らして鳴る骨の音を作品に取り入れようと試みたりと、近所からはあいかわらずの変人に見えたであろう。同年5月、第一次世界大戦の講和条約(ヴェルサイユ条約)締結に際し、ヴェルサイユ条約のブラジル全権大使エピタシオ・ダ・シウヴァ・ペソア Epitácio da Silva Pessoa(同年に彼はブラジル大統領に就任する)は記念ガラコンサートを計画した。3つの交響曲《戦争》《勝利》《平和》の作曲が、国立音楽学校の三人の作曲家に委嘱された。しかし、その一人のネポムセノが急遽辞退したため、ヴィラ=ロボスに作曲の委嘱が回ってきた。こうして《交響曲第3番、戦争》は作曲され、ベルギー国王も臨席したリオデジャネイロの演奏会は大成功であったとのこと。

 1920年代のブラジルでは、知識人や芸術家を中心とした「モデルニズモ」運動が華々しく繰り広げられていた。その象徴が1922年2月、サンパウロ市の市立劇場で開催された「近代芸術週間」である。「近代芸術週間」の演奏会ではヴィラ=ロボスの室内楽曲、歌曲、ピアノ曲が数多く演奏された。これにより、ヴィラ=ロボスのピアノ曲のいくつかが楽譜出版社Arthur Napoleãoから出版され、また彼の作品は、徐々に一部の進歩的な人々からは賞讃されていたが、また一方で保守的な批評家からは散々にこき下ろされていた。ヴィラ=ロボスはヨーロッパに渡り、かの地の聴衆に自分の作品の価値を問うてみたいと思ったのだろう。ブラジル議会で、ヴィラ=ロボスのヨーロッパ渡航の費用を援助すべきかについて議論がなされることになった。保守的な批評家の代表であるオスカル・グアナバリーノ Oscar Guanabarino は、「ヴィラ=ロボスはヨーロッパの音楽家や作曲家より習うべきことが沢山ある。ヨーロッパの音楽文化に触れることは彼にとって有益である」と批評家らしく彼の渡航に賛成意見を述べた。結局、議会はヴィラ=ロボスに渡航費用を援助することを決定したが、その額は不十分で、ヨーロッパで楽譜を出版したり演奏会を準備したりには足りなかったとのこと。しかし、知人・友人の援助も得ることができた。ここでも、ルービンシュタインがブラジルの富豪カルロス・ギンレを説得した時の様子が、彼の自伝に記されているので、再び引用しておく。

「カルロス、死んでからも人々の称賛を受けたいと思いませんか。ルドルフ大公やリヒノフスキー皇太子、ヴァルトシュタイン伯爵といった名は、もしベートーヴェンの音楽を理解し、愛し、その後援者として大きな役割を果たす幸運に恵まれなかったら忘れられていたでしょう。彼らの財政的援助のおかげで、偉大な天才ベートーヴェンは雑事にわずらわされずに傑作を書きあげることができたのです。この三人と同じような役割を演じた人たちが、いまも音楽史に名を遺しています」
 そしてさらに言葉を継いだ。
「カルロス、このブラジルにもほんものの天才がいるのです。私の考えではアメリカ大陸全体でも一人という天才が。なのに彼の祖国はその音楽をまだ理解していません。しかし後世の人々はきっと彼を誇りとするでしょう。(中略)その作曲家の名はエイトール・ヴィラ=ロボス、ブラジルの歴史に残る名です。もし彼を援助して下さるのなら、あなたの名前はヴィラ=ロボスの名とともに、いつまでも人々に記憶されると思います」

 1923年6月30日、フランス行きの船にヴィラ=ロボスは乗船した。出発にあたり彼はこう語っている。「私はフランスに勉強しに行くのではない。彼らに私がしてきたことを示すために行くのさ!。」

III. パリでの活躍

 1923年7月、ヴィラ=ロボスはパリに着いた。パリの人々は夏休み中で、ヴィラ=ロボスは演奏会の予定もしばらくは立たなかった。そのため彼は大作である《管楽、ピアノ、打楽器などと混声合唱のための「ノネット」、ブラジル全体の簡潔な印象 Noneto, Impressão rápida de Todo o Brasil》を夏じゅうに完成させた。同年10月以降は、いくつかの演奏会で自作の発表することが出来た。特に1924年5月30日のパリでの演奏会では、ルービンシュタインのピアノによる《赤ちゃんの家族、第1集》の演奏や、《ノネット》の初演が行われ、高い評価を得た。しかしやがて、ヴィラ=ロボスのパリ滞在費用は底を尽き、彼はギンレ家に援助を求めたりはしたが、結局1924年9月に一旦ブラジルに帰国した。

 ブラジルでは、ヴィラ=ロボスのパリでの演奏会の成功の評判もあって、翌1925年には自作の演奏会を数回催すことができた。またこの時期に、連作「ショーロ」の多くや、ピアノ組曲《シランジーニャス Cirandinhas》、《シランダスCirandas》といった、彼の代表作が多く作曲された。1926年12月、彼は妻ルシーリアを伴い、再びフランスへ渡った。今度は幸運にもパトロンのギンレ家から、パリのアパート代などの生活費から楽譜出版社に払う補償金まで援助してもらえることになった。(パリの楽譜出版社Max Eschig社はこの頃、ヴィラ=ロボスの作品の出版の条件として、初版印刷費用の半額を彼に負担するよう求めた。)パリで彼は、Max Eschig社に通っては楽譜の校訂を行い、妻はパリ在住の音楽家達を自宅に招いてはフェイジョアーダをご馳走してもてなした。ルービンシュタインは、ヴィラ=ロボスの、未だ出版されていないチェロソナタの自筆譜を高額で買い取りたがっている知人がいると嘘をついて、その楽譜を貰う代わりにヴィラ=ロボスに大金を払うことで援助した(何年も後にヴィラ=ロボスは、ルービンシュタインの家に、その楽譜があるのをたまたま発見したとのこと)。1927年10月のパリでのヴィラ=ロボス作品演奏会では、ルービンシュタインに献呈されたピアノ曲《野性の詩 Rudepoêma》の初演や《ショーロ2、4、7、8番》が、同年12月の演奏会では《赤ちゃんの家族、第2集 Próle do bébé, N.º 2》の初演や《ショーロ3、10番》などが演奏された。これらの演奏会は大成功だったようで、ルービンシュタインの自伝を以下に三たび引用します。

 ヴィラ=ロボスは、サル・ガヴォーで輝かしいデビューを飾った。彼はオーケストラのための大作を何曲か披露し、題名は忘れたが合唱付きのものもあった。この演奏会は文句なしの大成功だった。彼の音楽のどこか野性的な特徴、伝統の枠を超えた思考、歌やソロ楽器の新しい扱い方などが、パリジャンの好奇心をかきたて喜ばせた。ホールには著名な音楽家の姿も多く、プロコフィエフとラヴェルも顔を出した。
(中略)
 エイトールがデビュ−した数日後、カルロス・ギンレに昼食に招ばれたとき、嬉しさのあまり口許をほころばせて私は言った。
「ねえカルロス、ヴィラ=ロボスはきっと名を遺すと思いませんか」
 それを聞いてもギンレはさほど納得したようではなかった。
「そうは思われないのですか?」
 私はひどく驚いて尋ねた。
「いいえ、もちろんおっしゃる通りです。でも私は少々気分を害しているのです。彼のデビューにはずいぶん骨を折りました。そこで桟敷席を一枚頼んだのですが、彼はどうしたと思います? 私に請求書を送って寄こしたんですよ」

 1929年8〜9月にヴィラ=ロボスはブラジルに一時帰国し、リオ・デ・ジャネイロとサンパウロで演奏会を催し、まもなくヨーロッパに戻った。1930年4、5月にはパリで、ヴィラ=ロボス作品演奏会が盛大に行われた。翌6月に、彼はブラジルに帰国した。

IV. 祖国ブラジルでの教育家としての活躍

 ヴィラ=ロボスはブラジルに帰るや、去る1930年3月の大統領選挙で、次期ブラジル大統領に決まったジュリオ・プレステスと会う機会があった。そこでヴィラ=ロボスは、自身の子ども時代の経験からブラジルの学校の音楽教育が貧弱であり、国を挙げての音楽教育の充実の必要性を語った。プレステスはこの件でヴィラ=ロボスを全面的に支援する約束をしていた。しかし同年10月、ジェトゥリオ・ヴァルガスが当時の政治腐敗などの不満を背景に軍事クーデタを成功させて政権を掌握し、プレステスは失脚し、ヴァルガスが大統領に就任した。この政治混乱の中、ヴィラ=ロボスはブラジル国内では自分の望みが叶う希望もないと考え、彼は再びヨーロッパに渡る準備をしていた。そんなある日、サンパウロ州議会より、音楽教育についてヴィラ=ロボスの意見を聞く招請が来た。ヴィラ=ロボスは州議会で自分の計画を語り、賛同を得た。「ブラジル国民はクラシック音楽に触れるべきだ」というヴィラ=ロボス自身の考えに基づき、彼は1931年1月から9月まで、ヴィラ=ロボス芸術旅行団 Excurção Artística Villa-Lobos と呼ばれた一行を率いてサンパウロ州内の町々を回り、計54回のマラソンコンサートを開いた。演奏会ではベートーベン、ショパンからプロコフィエフ、そしてヴィラ=ロボスの作品が演奏された。Guiomar Novaes、João de Souza Limaといったブラジルの名ピアニストが演奏に参加し、もちろん妻ルシーリアはピアノを弾き、ヴィラ=ロボス自身はチェロを弾いた。やがて、この活動はヴァルガス政権にも知られることとなり、1932年、ヴィラ=ロボスは創設されたばかりの音楽芸術教育庁 Superintendência de Educação Musical e Artística (SEMA) の長官に就任したーこれは彼の人生で初めての定職であった。子どもたちへの効果的な音楽教育として、彼はまず合唱を重視した。自ら多くの合唱曲を作曲し、クラシック作曲家の作品を合唱曲に編曲した(ショパンのワルツまで、六声合唱に編曲した)。また自ら合唱団の指揮を多く行い、時には巨大なサッカースタジアムを借り切って三万人から四万人もを集めた大掛かりな合唱を指揮した。指揮棒ではスタジアム全体に指示が届かないので、彼は代わりにブラジル国旗を振って指揮をしたらしい。また、こういった大合唱団が歌うのは、ブラジル愛国歌のような曲が多かった。この当時、ヴァルガス大統領は自らの権限を強化した中央集権色の濃い「エスタード・ノーヴォ(新国家)」体制を進めており、国家への愛国心を高めるためにヴァルガスはヴィラ=ロボスを利用したとも言われている。また一方、ヴィラ=ロボスは自分の出世のためにヴァルガスを利用したという見方もできよう。ヴィラ=ロボスはヴァルガスに「貴方が推し進めている愛国主義を、私は音楽で容易く成し遂げることが出来ます」と語ったらしい。 彼は1938年に《ジェトゥリオ・ヴァルガス万歳 Saudação a Getulio Vargas》という合唱曲を作曲している。更に超巨大合唱団で愛国歌を歌うのは全体主義的で、当時のイタリア・ドイツのファシズムに通じる所があるとも批判されており、今日においてもヴィラ=ロボスの当時の行動は論争の的となっている。

 ヴィラ=ロボスの行った超巨大合唱は象徴的であったが、彼は教育者として他にもいろいろな業績を残した。自ら教育用のカリキュラムを作り、1942年には「国立合唱音楽院」を開校し、同院長として音楽教師を養成した。精神疾患の子どもたちに対する音楽療法を試みたりもしている。また音楽教師のための指導用楽譜集として、全六巻から成る《ギア・プラチコ(指導の手引き)Guia prático》作成を計画。《ギア・プラチコ》は、ヴィラ=ロボス自身の編曲によるブラジル童歌を137曲収載した第一巻が1941年に出版されたのみで、全巻完成には至らなかったが、それに加えて彼は学校教育用に86曲から成る《カント・オルフェオニコ(合唱歌曲集)Canto orfeônico》、《ソルフェージュ集 Solfejos》、23曲から成る《宗教歌集 Música sacra》を作った。ヴィラ=ロボスは、今まで系統的な音楽教育がなされてなかったブラジルで、しかもやんちゃ盛りの子ども達相手に、どうやって音楽を教えたのだろうか?。彼はまず子ども達に、注意深く音楽を聴くよう指導した。譜読みは二の次とし、耳から音楽を覚えさせるのを優先する教育法はスズキ・メソードにも似ている。また彼は「音楽は躾けなしでは成り立たない」と述べた。練習中の子ども達に落ち着きのない時は、まず「騒いでなさい」と言い、しばらく遊ばせてエネルギーを発散させてから再び練習に入ったらしい。子ども達に、数分間全く物音を出さずじっとしているようにさせたりもした。

 1932年頃、ブラジル教育大学の女学生であったアルミンダ・ネヴェス・ジ・アウメイダ Arminda Neves de Almeida (1912-1985) は、自分の書いた音楽教育に関する論文をヴィラ=ロボスに見てもらうことになった。ヴィラ=ロボスは、最初は彼女に会うのを面倒くさがっていたが、妻ルシーリアに促されて、ある日アルミンダに会った。アルミンダはこの後、ヴィラ=ロボスの楽譜の清書を行うなどの協力を続け、やがて二人の関係は深まっていった。1936年、ヴィラ=ロボスはチェコスロバキアのプラハで開かれた「第一回音楽教育国際会議」に出席し、ヨーロッパに数ヶ月滞在していたが、1936年5月、ついに彼はベルリンからルシーリア宛に離縁の手紙を出した。ブラジル帰国後も、17年間ルシーリアと過ごしたリオデジャネイロの長屋には二度と戻らなかった。当時のブラジルの法律では離婚は原則認められてはおらず、内縁の妻となったアルミンダは、公式文書には "Arminda Villa-Lobos" とはサインできず、代わりに "Arminda de Villa-Lobos" と記した。

V. 米国や世界各地での活躍・晩年

 1944年、ヴィラ=ロボスは政府の官僚としての仕事に嫌気がさしていたらしい。彼は同年11月、初めての米国へ演奏旅行に出かけた。最初に訪れたロサンゼルスのJanssen Symphonyで《交響曲第2番》、《野性の詩(管弦楽版)》、《ショーロス第6番》を自ら指揮した。国際的にも、その名が知られつつあったヴィラ=ロボスは数々の会合に呼ばれたが、そういった場でも彼は相変わらずの毒舌だったらしい。あるパーティーでのエピソードを以下に引用します。(『白いインディオの想い出 ヴィラ=ロボスの生涯と作品』、著/アンナ・ステラ・シック、訳/鈴木裕子、トランスビュー、2004年)

 ヴィラ=ロボスは、ある女性クラブにも招かれましたが、こうしたクラブはアメリカに数多くあって、社交界の無教養を体現する女性たちの集まりでした。クラブの会長は、このクラブの重要さを示そうとして、ゲストに挨拶した後に、このサロンにこれまで招いた有名人の長いリストを読み上げはじめました。トスカニーニ、ラフマニノフ、ストラヴィンスキー、ストコフスキといった人々です。ヴェリッシモ(筆者注:ヴィラ=ロボスの通訳)はヴィラ=ロボスという人物をよく知っていますので、この長大なリストを聞いて、自分は大勢のゲストの中の一人でしかないという印象を受けた彼のいらだちが、簡単に想像できました。
 それが頂点に達したのは、女性会長が通訳の方を向き、次のように言ったときです。「英語をお話しにならないとしても、私たちはまったく気にしないということも、どうぞヴィラ=ロボス氏にお伝えください。私たちは、氏にたいへん感服しておりますので、ここにいらっしゃるお姿を眺めるだけで嬉しいのです」。通訳は作曲家の方を向き、会長の言葉を伝えました。ヴィラ=ロボスの反応はすばやいものでした。「私はオウムでもピエロでもないと彼らに言ってやれ!」。少しばかり困惑しながら、ヴェリッシモは聴衆に向かい、「マエストロは、本日ここに来られたことを大変嬉しいとおっしゃっています」と通訳しました。
(中略)
 会の終盤では、マエストロは自作をひとつ演奏することに応じました。彼は席を立ち、ピアノの方へ向かい、そこに座ると和音をたたきました。そしてしかめ面をして私の方を振り向いて言いました。「このピアノは調子はずれで、本物のぼろピアノだと女性会長に言ってくれ……」

 まあ、もし私がヴィラ=ロボスだったら、同じくチョームカつきますけどね。ヴィラ=ロボスはその後ニューヨークに移動し、翌1945年2月にはニューヨーク・フィルハーモニーを指揮して《ショーロス第8、9番》を演奏。同月にはボストン交響楽団を指揮して《ブラジル風バッハ第7番》、《ショーロス第12番》(初演)、《野性の詩(管弦楽版)》を演奏。更にシガゴでは、シカゴ交響楽団の団員らによるメンバーを指揮して《ショーロス第7番》などを演奏した。同年3月にヴィラ=ロボスはブラジルに帰国するも、その後は米国各地の管弦楽団や大学から毎年のように演奏や講演の招聘があり、彼は晩年まで、ほぼ毎年米国を訪問した。1945年、ヴィラ=ロボスはカナダのピアニストEllen Ballonから依頼を受けて《ピアノ協奏曲第1番》を作曲。これを皮切りに、ヴィラ=ロボスのもとへは、世界中の演奏家や楽団などから作曲の依頼が来た。これにより、ヴィラ=ロボスの作品は、以前の、奇抜な楽器の組み合わせによる比較的小編成の野心的な作品から、交響曲とかピアノ協奏曲などの、今までは演奏してもらえるチャンスの少なかった大編成の伝統的な様式の作品へと変わっていった。1948年、ロサンゼルスのシヴィック・ライト・オペラから委嘱された音楽冒険劇《マグダレーナ Magdalena》の初演にヴィラ=ロボスは立ち会う予定であったが、この年に彼は膀胱癌と診断され、1948年7月にニューヨークの病院で手術を受け、ロサンゼルスには行けなかった。1950年には再手術で入院したが、入院中も彼は病床で弦楽四重奏曲第12番を作曲した。1952年よりは米国に加えて、フランスも活動の本拠地とし、パリのホテル・ベッドフォードを定宿とした。1957年の彼の70歳の誕生日に際し、ニューヨーク市からは表彰を受けた。また同年、ブラジルでも「ヴィラ=ロボス年」が制定され、記念行事が催された。

 晩年のヴィラ=ロボスは膀胱癌を患っていた影響か、徐々に腎不全が進行していたらしい。それでも1959年3月はニューヨークで過ごし、その後ヨーロッパに渡り、6月にはブラジルに一時帰国するも、7月にはニューヨークで催されたエンパイアステート音楽祭での「ヴィラ=ロボスの夕べ」と題された演奏会で自作の指揮をしている。同月にはカルロス・ゴメス勲章授与のためブラジルに帰国したが、7月下旬に体調を崩し、リオ・デ・ジャネイロの病院に入院した。彼は腎不全末期であり、担当医らは腎移植や血液透析の治療法も検討したが、いずれもリスクが高く断念された。ブラジル大統領クビチェックも彼の見舞いに訪れた。ヴィラ=ロボスは9月2日(11月はじめとする資料もあり)に退院。以降はリオ・デ・ジャネイロの自宅で療養を続け、1959年11月17日、自宅にて妻アルミンダらに看取られて亡くなった。

VI. ヴィラ=ロボスの作品について

 ヴィラ=ロボスの作品数については資料によってばらつきが多い。組曲をどう数えるかとか、同じ曲を他の楽器に編曲したものをどう扱うかなどによって数え方は異なり、567曲 (Appleby氏作成のカタログ)、650曲以上(ヴィラ=ロボス博物館のカタログ)などと記されていて、未出版の曲など全部合わせると結局のところ生涯に二千〜三千曲位は作ったとされ、ともかくの多作家である。私自身、とてもじゃないが彼の全作品を聴いたことなどなく、ヴィラ=ロボスの作品について語ることなど困難であり、主な作品を羅列するに留めます。
 まずはヴィラ=ロボスの代表的な連作として、《ショーロス Choros》と《ブラジル風バッハ Bachianas brasileiras》が有名。ショーロとは、ブラジルの街角の流しの音楽家たちによるセレナード風の器楽音楽のことだが、ヴィラ=ロボスは少年時代から親しんだこのショーロを、彼独自の音楽に昇華したものである。ヴィラ=ロボスが作曲家として最も脂の乗った1920年代に主に書かれ、様々な楽器編成からなる計16曲の《ショーロス》を作ったが、うち2曲は失われてしまっている。《ブラジル風バッハ》は、1930年から1945年にかけて作曲された全9曲の連作。バッハの作品をブラジル風に編曲した訳では決してなく、かといってブラジル音楽をバッハ風の和声や対位法で編曲した訳でもなく、何とも説明が難しいが、ともかく原題のBachianas Brasileiras(直訳すれば、バッハ風・ブラジル風)通りの独特の音楽である。
 交響曲は12曲も書いた(但し《第5番、平和》の楽譜は紛失している)が、「交響曲」という古典的なジャンルが彼の性に合わなかったのか、あまり成功作はないような気がするが、評価の分かれる所であろう。第一次世界大戦終結に伴って委嘱されて書かれた《交響曲第3番、戦争 A guerra》(1919) は楽器に「大砲」なんてあるので、戦争描写爆裂のスゴい曲らしい。
 交響曲以外の管弦楽曲には、ヴィラ=ロボス独自の管弦楽法による傑作が多い。バレー音楽《アマゾナス Amazonas》(1917) は、ヴィラ=ロボスが父から聞いたアマゾン先住民の伝説に基づく曲。交響詩《ウイラプルー Uirapurú》(1917) はブラジルの伝説に出てくる魔法の鳥の名前。管弦楽組曲《ブラジル発見 Descobrimento do Brasil》(1937) は第1組曲から第4組曲まであり、同年公開のブラジル映画『ブラジル発見』のサウンド・トラックのために作曲された。交響詩《浸食、アマゾン川の水源 Erosão, A origem do Rio Amazonas》(1950)、バレー音楽《ルダー、愛の河 Rudá, Dio d'amor》(1951)、バレー音楽《皇帝ジョーンズ The Emperor Jones》(1956) なども代表作である。
 協奏曲形式の作品では、《ピアノと管弦楽のための幻想曲「モモプレコッセ Momoprecoce」》(1929) が有名。いわゆる「協奏曲」と正式に銘打った作品には、《ピアノ協奏曲第1番〜第5番》(1945-1954)、《チェロ協奏曲第1番》(1915)、《チェロ協奏曲第2番》(1953-1954)、《ギター協奏曲》(1951)、《ハープ協奏曲》(1953)、《ハーモニカ協奏曲》(1955) があるが、チェロ協奏曲第1番以外はいずれも、ヴィラ=ロボスが米国デビューを果たした1944年以降に作曲されている。米国デビュー以前のヴィラ=ロボスは「協奏曲」を作っても、それを演奏してもらう管弦楽団やソリストを手配するにも費用もかさむし〜といった感じの生活だったが、1944年以降は国際的にも有名になったお蔭で、世界中の演奏家から「協奏曲」の委嘱が来るようになった〜という事情が影響しているのだろう。
 室内楽曲こそ、ヴィラ=ロボスの名曲の宝庫である。生涯に亘って17曲もの弦楽四重奏曲 (1915-1957) を作ったのを筆頭として、《フルート+アルトサックス+ハープ+チェレスタ+女性合唱付き四重奏曲》(1921)、《ショーロの形式による木管五重奏曲》(1928)、《神秘的六重奏曲 Sexteto místico》(1917)、ファゴットと弦楽五重奏のための《七つの音のシランダ Ciranda das sete notas》(1933)、6曲のトリオ(内3曲はピアノトリオだが、残りは、フルート+チェロ+ピアノ、オーボエ+クラリネット+ファゴット、ヴァイオリン+ヴィオラ+チェロと編成が普通じゃない)、4曲のヴァイオリンソナタ (1912-1923)、2曲のチェロソナタ (1915) などなど挙げたらきりがない。
 独奏曲では、何と言ってもピアノ曲が多く、組曲も各曲ずつで数えれば、数百曲のピアノ曲を書いている。また青年時代にショーロ楽団でギターを弾いていたヴィラ=ロボスは、ギターのための《ブラジル民謡組曲 Suíte popular brasileira》(1908-1923) を作曲し、後の1924年にはギタリストのアンドレス・セゴビアとの出会いにより触発され、セゴビアに献呈された《12の練習曲集》(1929)、《6つの前奏曲集》(1940, 但し第6番は紛失) などのギター曲を作曲していて、これらは現在もギタリストたちにとっては重要なレパートリーとなっている。
 劇場作品では、オペラ《イザート Izaht》(1912-1914)、オペレッター正しくは音楽冒険劇の《マグダレーナ Magdalena, a musical adventure》(1947)、オペラ《イェルマ Yerma》(1955-1956) などがあるが、現在上演されることは殆どない。合唱曲は、1930年代に音楽芸術教育庁長官として合唱に力を入れていた頃の作品が多く、ミサ曲《聖セバスチャン São Sebastião》(1937)、六声合唱のための《ベンジータ・サベドリア(知識への賛美)Bendita sabedoria》(1958)、独唱、混声合唱と管弦楽のための《マニフィカト・アレルヤ Magnificat aleluia》(1958) などが代表作。また1958年にヴィラ=ロボスは、ハリウッド映画『緑の館 Green Mansions』(1959) のための音楽を作曲した。『緑の館』はオードリー・ヘップバーン主演の映画だったが、地味な作品で興行成績は芳しくはなかったとのこと。ただ、同時に『緑の館』の音楽を使って、ソプラノ独唱、男声合唱と管弦楽のための《アマゾンの森 Floresta do Amazonas》(1958) を纏めている。独唱曲は全部で二百曲くらいあり、ヴィラ=ロボスの作品の中でも特に民族的である。14曲から成る《セレスタス Serestas》(1926-1943)、2集13曲から成る《モジーニャとカンサォン集 Modinhas e canções》(1933-1943) などがある。

VII. ヴィラ=ロボスのピアノ曲について

 ヴィラ=ロボスは子供時代からチェロ、クラリネット、ギターなどの楽器を習ったが、ピアニストではなかった。それにも関わらず、彼の多数の作品の中でもピアノ曲は大きなウエイトを占めている。ピアノについては1912年に知り合った、ピアノ教師であり、彼の最初の妻となるルシーリア・ギマランエスから教わった部分が多いと思われる。(1936年に離婚した後は、ギマランエスは「ヴィラ=ロボスは個性ある音楽家と言われているが、それは私のお蔭よ!」のようなことを言い続けていたらしい。)1914年以降のピアノ曲は、どんどん技法が進化し、《赤ちゃんの家族》や《野性の詩》などの超絶技巧の作品は、根っからのピアニストでなければとても作曲できないような極めてピアニスティックなものに仕上がっている。ヴィラ=ロボスの作品の分類法については、アデマール・ノブレガ Adhemar Nóbrega の論文『A transfiguração da expressão popular na obra de Villa-Lobos. Presença de Villa-Lobos』(1970) によると、ヴィラ=ロボス自身が自分の作品を、特に民族音楽からの影響という観点から5つのグループに分類していたと書いている。このヴィラ=ロボス自身の分類は大変興味深いが、ちょっと複雑である。ここでは、私が各ピアノ曲を聴いた個人的印象で、以下の通りに分類してみました。

  ブラジル民族音楽の影響のあるもの、
またはブラジルの童歌の引用のあるもの
ブラジル民族音楽の影響の殆どないもの
古典派またはロマン派などの、伝統的なスタイルの曲 Valsa romântica ロマンティックなワルツ (1905)
Tristorosa トリストローザ (1910)
Brinquedo de roda 輪になって遊ぼう (1912)
Petizada 小さな子供たち (1912)
Cirandinhas シランジーニャス (1925)
Francette et Pià フランセットとピア (1927)

Bachianas brasileiras No. 4 ブラジル風バッハ第4番 (1930-41)
Valsa da dor 苦悩のワルツ (1932)
Poema singelo  単純な詩 (1942)
Bailado infantil  子どもの踊り (1911)
Suite infantil No.1 子どもの組曲、第一集 (1912)
Suite infantil No.2 子どもの組曲、第二集 (1913)
Ibericarabé イベリカラーベ (1914)
Ondulando 波のように (1914)
Histórias de Carochinha おとぎ話 (1919)
印象派の影響の大きい曲 Suite floral 花の組曲 (1916-8)
A lenda do caboclo カボクロの伝説 (1920)
Saudades das sélvas brasileiras ブラジルの密林の思い出 (1927)
Simples coletânea 単純な選集 (1917-9)
Carnaval das crianças 子供たちのカーニバル (1919-20)
A Fiandeira 糸を紡ぐ女 (1921)
Caixinha de música quebrada 壊れたオルゴール (1931)
As três Marias  三つの星(3人のマリア) (1939)
Hommage à Chopin ショパンを讃えて (1949)
ヴィラ=ロボス独自の不協和音を大胆に用いた曲 Danças características africanas アフリカの特徴的な舞曲集 (1914-5)
Amazonas アマゾナス (1917)
A prole do bebê, no. 1 赤ちゃんの家族、第1集 (1918)
Próle do bébé, no. 2 赤ちゃんの家族、第2集 (1921)
Rudepoêma 野性の詩 (1921-6)
Choros No. 2 ショーロス第2番 (1924)
Choros No. 5 ショーロス第5番 (1925)
Cirandas シランダス (1926)
Ciclo brasileiro ブラジル風連作 (1936-7)
New-York Sky Line Melody ニューヨーク・スカイライン・メロディ (1939)
 
桃色の曲は子どもが演奏可能な作品

 これはあくまで大雑把な分類で、特に組曲形式の作品ではその中の各曲によってまた作曲様式が異なっていることもある。ヴィラ=ロボスのピアノ曲には、赤ちゃんや子どもを題材にした曲が多い。彼には子どもはいなかったが、子どもが大好きだったのだろう。ヴィラ=ロボスは非常に独創的な作曲家であるが、1914年以前はブラジルのショーロなどの大衆音楽や、ヨーロッパロマン派の流れを汲んだ作品が多い。それが、1914年作曲の《アフリカの特徴的な舞曲集》(ヴィラ=ロボス自身、この曲を初期の作品の中で最も重要なものとみなしていた)辺りをきっかけに、どんどん作曲技法は進化していく。《花の組曲》や《単純な選集》などは、ドビュッシーなどの印象派の影響が強いが、彼の代表作となる1918年作曲の《赤ちゃんの家族、第1集》では、いつの間に印象派をも越えた、彼独自の音楽に到達している。1923年にヴィラ=ロボスは初めてヨーロッパに渡るが、出発に際して語った「私はフランスに勉強しに行くのではない。彼らに私がしてきたことを示すために行くのさ!」と言う台詞は、当時の彼の作品を聴けば、この台詞が見栄っ張りでもなく、ヴィラ=ロボス独自の世界が既に確立されていることを如実に語っている。この、1914年頃から1923年にヨーロッパへ出発するまでの約十年の間に、ブラジルに居ながらにして、特に誰かに師事することもなく、ブラジルの他の作曲家の誰もが殆どなし得なかった数々の技法ー彼独自の不協和音、高度な多調やポリリズム、ピアノ譜上で旋律と伴奏という概念を超えた三階建て、四階建て?の音作り、そしてヴィラ=ロボスのピアノ曲のトレードマークと言ってもいい高速両手交互連打などなどーが生み出されている。ヴィラ=ロボスが、ここまで奇跡と呼んでもいい程の進化を遂げることが出来た理由は何なのだろうか?。いくつものヴィラ=ロボスに関する文献を読んでも、結局の所、その辺の真相は分からず、謎である。1930年代〜1940年代前半のヴィラ=ロボスは、作曲技法の前衛さはやや影を潜めるが、その代わり音楽に風格を感じる円熟した作品となっていく。その代表作がピアノ曲では《ブラジル風バッハ第4番》や《ブラジル風連作》である。1944年にアメリカを訪問して以降の、功成り名遂げたヴィラ=ロボスは、世界中からの委嘱や依頼で協奏曲やオペラなどを作曲したが、ピアノ独奏曲は、1949年にUNESCOの委嘱で作曲された《ショパンを讃えて》と僅かの小品のみである。

 ヴィラ=ロボスのピアノ曲は、同じくブラジルを代表する作曲家のナザレやミニョーネのロマンティックなピアノ曲と比べると、概ね難解で、聴き手に媚びることも無く、むしろ喧嘩を売ってくるように迫って来る。ハッキリ言って、聴いていてあまり心は和まないし、癒されもしない。(《苦悩のワルツ》という、数少ない癒し系?のピアノ曲があるが、ヴィラ=ロボスは生前この曲を何故か公表を望まず、死後に遺作として公表された。)そのためか、中南米で最も有名な作曲家で名前はよく知られている割には、その音楽の中身はあまり聴かれていないように思える。そのため、ヴィラ=ロボスの作品を楽しむためには、めったに笑わずお世辞も言わないような相手の心を何とか開くように、聴き手からの歩み寄りと努力も多少必要な感じもする。でも、ヴィラ=ロボスの音楽が貴方の心に響くように開いてくれた時、その音楽は何とも懐が深く、本当は愛情に満ち満ちていることに気がつきますよ。

 最後に、ヴィラ=ロボス自身が書いた有名な言葉を載せます。
 「私は自分の作品を、返事を期待せずに書いた後世の人への手紙と見なしている。 Considero minhas obras como cartas que escrevi à Posteridade, sem esperar resposta.」

 

Heitor Villa-Lobosのページへ戻る