Felipe Villanuevaについて
フェリペ・デ・ヘスス・ビジャヌエバ・グティエレス Felipe de Jesús Villanueva Gutiérrez は1862年2月5日、メキシコシティより北東に60キロ程離れたメヒコ州テカマク Tecámac に生まれた(現在この町はなんとTecámac de Felipe Villanuevaという名称になっている)。幼いビジャヌエバは毎日のように教会へオルガンを聴きに通ったとのことで、子どもの頃より兄からヴァイオリンを習い、町の教会のオルガニストをしていた従兄弟からも音楽を習った。息子が音楽にとても興味を示すのに気付いた父は、地元の楽団の指揮者のJosé Hermenegildo Pineda氏に付かせて和声を習わせた。ビジャヌエバの家は決して裕福ではなかったが、父はPineda氏と一緒にメキシコシティに行き、息子のために小さな中古ピアノを買ってきてあげた。10歳の時には、ビジャヌエバは児童合唱とピアノのためのカンタータ《イダルゴ神父の肖像 El retrato del cura Hidalgo》とピアノ曲《別れ、マズルカ La despedida, Mazurka》を作曲している。
1873年、父の勧めでビジャヌエバは首都メキシコシティへ出て、兄と共にメキシコ音楽院(後の国立音楽院)に入学したが、一学期を終えた段階で兄弟とも退学させられてしまった。理由は、ビジャヌエバ自身は「才能がなかったから」と言っていたらしいが、真相は彼がインディヘナ(先住民)の血統のため差別を受けたためらしい。1875年には故郷テカマクに戻りPineda氏の楽団で演奏していた。
1876年頃、ビジャヌエバは再びメキシコシティへ出る。イダルゴ劇場のヴァイオリニストのオーディションに合格し、楽団の第二ヴァイオリンの職に就いた。作曲も独学で続けた。ちょうどこの頃メキシコシティではWagner y Levienという楽器・楽譜店が創業されていた。ビジャヌエバは同店の店主と知り合いになり、ヨーロッパから輸入された楽譜を店のピアノで弾いたりする一方、店にある数々の楽譜から和声法・作曲法・管弦楽法の書物に至るまでを読み漁った。1879年にはビジャヌエバのピアノ曲《La erupción del peñol》、《La llegada del ciclón》が同社から出版された。またこの当時、ヨーロッパのオペラがメキシコでも上演され始め、上流社会では大変な人気を博していた。今と違ってレコードもテープもない時代であり、家庭ではオペラの名場面をピアノ編曲したものが演奏され楽しまれていて、オペラのピアノ編曲楽譜はよく売れたらしい。ビゼーのオペラ《カルメン》も1881年にメキシコで初演されていて、ビジャヌエバは《カルメン》の中のハバネラ・マラゲーニャ・闘牛士の歌をピアノ連弾に編曲し、Wagner y Levien社より出版された。1887年にはロッシーニの、有名な《ウィリアム・テル》序曲もピアノ連弾に編曲している。
1887年にはメキシコの他の作曲家達と共に音楽学校 "Instituto Musical" を創立し、ピアノを教えた。ビジャヌエバは生徒に、バッハのインベンションや平均率クラヴィーア曲集を特にしっかり練習させたとのことである。
1887-1888年にかけて、3幕から成るオペラ《ケオファー Keofar》を作曲したが、生前には上演されなかった。
1893年5月28日、31歳の若さでメキシコシティにて亡くなった。死因は肺炎とされているが、アルコール譫妄もあったとのこと。彼の没後の同年7月29日に、オペラ《ケオファー》はメキシコシティのTeatro Principalにて初演された。
現在、メキシコ州トルカ市のコンサートホールは "Sala Felipe Villanueva" と呼ばれている。またエンリケ・バティスが指揮するメキシコ州立交響楽団が催すオーケストラのための作曲コンクールは、"Concurso Nacional de Composicion Felipe Villanueva"、トルカ市のピアノコンクールは "Concurso de Piano Felipe Villanueva" という名称がついている。
ビジャヌエバの作品にはオペラ《ケオファー》、女声独唱と合唱のための《3つのモテット Tres motetes》(1892)、数曲の合唱曲、歌曲とヴァイオリン曲があるが、多くの作品はピアノ曲である。ピアノ曲は全てサロン風の小品で、メキシコ民族主義と言えるようなはっきりした旋律やリズムを用いたものは少ない。全体的に派手な所にも乏しい。しかし天性の歌心をピアノ曲に昇華させた彼の作品の旋律は、心温まるような雰囲気に満ちていて、マヌエル・ポンセはビジャヌエバを「ピアノの詩人」と讃え、また「アメリカ大陸のシューベルト」と呼ぶ人もいる位である。(そういえば、ビジャヌエバが31歳の若さで夭折したのもシューベルトと同じだ。)また、ヨーロッパのワルツや踊りとは異なった、独特の明るく、ホンワリとした気分の彼の作品の個性こそ、メキシコ的と言っていいのかも知れない。