Juventino Rosasについて

 ホセ・フベンティーノ・ポリカルポ・ローサス・カデナス José Juventino Policarpo Rosas Cadenas は1868年1月25日、グアナファト州サンタ・クルス・デ・ガレアナで生まれた。彼は先住民族のオトミ族であるとする文献があるが、確証はない。父ヘスス・ローサス Jesús Rosas はハープが弾けたらしく、フベンティーノは子供の頃からヴァイオリンを習った。

 1875年頃、一家はメキシコシティーに移住した。父ヘススは首都での収入を期待してか、またはフベンティーノにしっかりした音楽教育を受けさせたかったのかも知れない。メキシコシティーで父ヘススはハープを、弟(または従兄弟)のマヌエル Manuel はギターを、そしてフベンティーノはヴァイオリンを弾くストリートパフォーマンスの僅かな収入で生計を立てが、間もなく一家三人揃ってダンス音楽の有名なグループに雇われダンスホールなどでの演奏の仕事にありついた。1883年にはメキシコ出身の世界的オペラ歌手アンヘラ・ペラルタ Ángela Peralta (1845-1883) のメキシコ国内演奏旅行に、フベンティーノはバックオーケストラのヴァイオリニストとして同行していたとのことであり、既にヴァイオリンの技能に長けていたと思われる。1884年1月には才能を見込まれて、学費の援助を得て国立音楽院に入学し合唱のクラスに在籍したが、約1年で退学してしまっている。

 その後のフベンティーノ・ローサスは楽団のヴァイオリン弾きや学校の教師をしながら作曲を行った。1888年には再び国立音楽院に入学して声楽と音楽理論を学ぶが、また1年足らずで退学してしまった。この年はローサスにとって作曲のピークを迎えるが、経済的には苦しく、数々のパトロンに自作を献呈しては援助を仰いでいた。特にパトロンのVicente Alfaro家のためには、フベンティーノ・ローサスはVicente Alfaroの妻Calixta Guitierrez de Alfaroに、後に有名になる《波涛を越えて、ワルツ Sobre las olas, Vals》を作曲して献呈、娘のMaura Alfaro de Garridoに《酒場の女、ポルカ La cantinera, Polka》を献呈、孫のAlejandro Jose Luis Garridoに《誘惑者の夢、ワルツ Ensueño seductor, Vals》を献呈した。また1888年から1890年までは「Orquesta José Reyna」という6人から成る楽団のリーダーを務めた。

 1891年頃よりフベンティーノ・ローサはメキシコシティーを離れ、旅芸人のごとくメキシコ各地で楽団を率いていたようである。1891年にはメキシコ中西部のミチョアカン州モレリアで、1892-1893年にはモンテレイなどメキシコ北東部で彼の活動が記録されている。経済的には依然苦しく、モンテレイでは1足の靴を手に入れるために、靴屋の娘のDolores Menchacaにワルツ《ドローレス Dolores》を作曲して献呈したとのことである(楽譜は現存せず)。1893年にはフベンティーノ・ローサはJuana Moralesという女性と結婚したという記録があるが、これも真偽は定かでない。

 1893年1月、フベンティーノ・ローサスは「Orquesta Típica Mexicana」という楽団に入団。この楽団は同年3月には陸路米国に入り、テキサス州サン・アントニオではメキシカンハットに民族衣装の出で立ちで演奏会を行い成功。5月にはシカゴに到着。ちょうどシカゴで行われていた世界コロンビア万国博覧会に合わせて演奏会を開いた。フベンティーノ・ローサスは博覧会の作曲コンテストに《孤独、ワルツ Soledad, Vals》、《メキシコの花、ポルカ Flores de México, Polka》、《マーガレットの花、ワルツ Flores de Margarita, Vals》、《ローマの花、ダンソン Flores de Romana, Danzón》の4曲を出品し、名誉賞とメダルを得た。10月頃にはシカゴを発ち南下した楽団は、イタリア人ヴァイオリニストPasqualino Bianculliが率いる楽団と合体し、メキシカン-イタリアン・オーケストラと名乗り12月下旬にはフロリダ州で演奏会をしている。

 1894年1月、フベンティーノ・ローサスら演奏家・歌手・踊り手から成るメキシカン-イタリアン・オーケストラはフロリダ州タンパから船に乗り、当時まだスペインの植民地であったキューバのハバナに到着。(左の写真はその頃のもので、米国のコンテストで得たメダルをぶら下げている。)ハバナでの演奏会のプログラムにはメキシコ民族舞踊、スーザの行進曲《士官候補生》、ヴェルディのオペラのアリア、マスカーニのオペラ《カヴァレリア・ルスティカーナ》の間奏曲などが含まれ、そしてトリはオーケストラの伴奏でフベンティーノ・ローサスが自らヴァイオリンを弾く《波涛を越えて》であったと。演奏会は大評判で、その後フベンティーノ・ローサスらはキューバ各地を回り演奏会を行い、同年5月にはキューバ東部のサンティアゴ・デ・クーバまで到達した。しかしここでフベンティーノ・ローサスは体調を崩し演奏会は中止、船でハバナ近くのバタバノ港に運ばれ、同地の病院に入院した。キューバでも有名人となっていた彼は特別病室をあてがわれて治療を受けたが、診断は脊髄炎(または髄膜炎)だったとのこと。当時は抗生物質もなく、治療にもかかわらずフベンティーノ・ローサスは1894年7月9日午後5時亡くなった。まだ26歳であった。

 それから14年後、あるメキシコ人の新聞記者がキューバのバタバノでフベンティーノ・ローサスの墓を発見。新聞社やメキシコ作曲家協会などの力によりフベンティーノ・ローサスの遺骨は掘り起こされ、船でメキシコのベラクルス港に運ばれ、鉄道でメキシコシティに運ばれた。ベラクルスで、鉄道沿線で、そしてメキシコシティでは何千人の群集が見守ったとのこと。国立音楽院ではセレモニーが行われ、《波涛を越えて》が演奏し続けられた。作曲家・音楽学者のRubén M. Camposはスピーチの締めで「君の音楽は愛で、恍惚で、至福だ。君の音楽は栄光の翼に乗って国境を、場所を、時を越えていくだろう。音楽は風を越えて響き、雲を越えて、霧を越えて、そして波涛を越えて」と語った。その後1932年にはメキシコで、映画『Sobre las olas』が作られた。この映画では貧しいフベンティーノ・ローサスが金持ちの女性と恋に落ちるストーリーとして描かれたとのこと。1950年にはメキシコで、また別の映画『Sobre las olas』が作られた。今度はもう少し史実に従った彼の生涯が描かれたが、やはり恋物語などが加えられた映画とのこと。そして1951年に米国映画『歌劇王カルーソ The Great Caruso』の中で、カルーソ役を演じるマリオ・ランツァとカルーソの妻となるドロシー役を演じるアン・ブライスが、「一年で最も素敵な夜 The Loveliest Night of the Year」という題名で歌詞を付けた《波涛を越えて》を歌い、このメロディーは世界的に有名になり、今では知らぬ人はいない程の名曲となっっている。

 フベンティーノ・ローサスの作品は元々は自分の楽団(オルケスタ・ティピカという十人程度の小さな管弦楽団)の演奏のために作曲されたと思われるが、出版されたのは殆どピアノ曲としてである。彼自身はヴァイオリニストでピアノは弾かなかったらしく、ピアノ曲の楽譜は大体が右手の旋律に左手のブンチャッチャッという伴奏から成る極めて単純な形で、小楽団用のスコアをピアノに編曲した感じである。技法的にも和声的にも凝った所など無く、天性の歌心のままに曲を書いた、といったところである。特にメキシコ風味というのもないのだが、その無垢とも言っていいおおらかで優雅な旋律こそメキシコ的なのかもしれない。

 

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